姫路城(姫路市)

姫路城は、正平元(1346)年の赤松則村(円心)の子、貞範が築城したといわれています。
その後、室町時代を通して赤松氏の城で、嘉吉の乱の没落後は山名氏が播磨を治めましたが、応仁の乱後播磨は再び赤松氏のものとなりました。
そして戦国時代には赤松氏の支族の小寺氏のものとなりました。そして、天文24(1555)年から永禄4(1561)年の間に小寺氏の家臣、黒田重隆がその子職隆とともに新城を建設し、御着城の出城としました。
そして、職隆の子黒田官兵衛孝高(如水)の時に小寺氏は没落し、官兵衛は羽柴秀吉に仕えることになりました。
天正8(1580)年、官兵衛は秀吉に姫路城を譲り、居城とすることを勧めました。秀吉は3層の天守閣を築きました。秀吉はさらに、移住してくる者の役を免除したり、龍野町に楽市を設けたり、山陽道を姫路城下を通るようにするなど、播磨の中心になるように城下町の体裁を整えました。
秀吉は、姫路城を拠点に中国の毛利勢と戦いました。天正10(1582)年、本能寺の変が起こった時には、この城から山崎に向かい、合戦に勝利しました。
秀吉は天正11(1583)年には大坂城を築き、秀長が城主となりました。しかし、天正13(1585)年には木下家定が城主となりました。
慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いで戦功をたてた池田輝政が城主となり9年の歳月をかけ本格的に拡張し、現在の5層6階地下1階の天守閣を築きました。池田氏の後は、本多忠政が入城し、西の丸、三の丸と増改築を行いました。
江戸時代は奥平松平氏(忠明系)、越前松平氏(直基系)、榊原氏、越前松平氏(直基系)、本多氏、榊原氏とめまぐるしく城主が代わりました。
寛延2(1749)年、酒井氏(雅楽頭家)が入封し、明治を迎えました。
明治7(1874)歩兵第十連隊が設置され、一部の建物が取り壊されました。
中村重遠大佐が明治11(1877)年に名古屋城と姫路城の保存を願い出て、姫路城の修復などが始まりました。中村大佐の記念碑が城内に建っています。
明治15(1882)年には失火で備前丸を焼失、しかし第二次世界大戦の空襲は奇跡的に免れ、大天守、3つの小天守とそれを結ぶ渡櫓、西の丸長局や化粧櫓ほか、城門も多数現存しています。
平成5(1993)年、世界遺産に指定され、平成18(2006)年には日本100名城に選定されました。
昭和31(1956)年~昭和39(1964)年には昭和の大修理が行われ、平成21(2009)年~平成26(2014)年度にかけて、平成の大修理が行われました。
世界遺産だけあって、どの方角からみても美しい城です。隣の好古園もすばらしい庭園です。
H16.7.13
Photo Canon EOS 30D
H20.8.16
住所: 兵庫県姫路市本町68番地
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