有田城(北広島町・旧千代田町)
西国の桶狭間・有田中井出合戦の舞台となった有田城
2011年04月24日
有田城の城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏、西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していました。
永正12(1515)年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城(広島市安佐南区)の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍しました。
これに対し、大内氏の命を受けた郡山城の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城しました。(第一次有田合戦)
永正14(1517)年安芸守護職銀山城武田元繁は熊谷元直・己斐師道・香川行景等諸将を与力とし5千の大軍を擁して、小田信忠の居城、有田城を包囲したが、猿掛城の毛利元就は2千の劣勢で朝霧をついて有田の地に又打川を挟んで武田勢と対戦。かくて有田合戦が繰り広げらました。
合戦は中出に出陣した熊谷元直の戦死に続いて武田元繁は戦死し、大将を失った武田勢は形勢逆転、翌朝太郎丸に出撃した己斐師道も討死して、武田勢は毛利勢の前に壊滅しました。山県一族の壬生・有田・今田氏も没落しました。
元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にありますが、今田、中井出など異説があり、確定されていません。
この有田合戦は、武田氏の威勢を失堕させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなりました。戦後、有田城は毛利氏・吉川氏の属城になったとされますが、その後は不明のようです。
城跡は四つの郭(人工的な平坦面)と、郭の北西端を固める土塁(人工的な土手)が残っています。炭化米が出土するそうです。
(説明看板などより)
城跡は、有田八幡神社より登ります。(駐車場有り)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.3.18
住所: 広島県山県郡北広島町有田
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