記念館三笠(横須賀市)
日露戦争中の連合艦隊の旗艦三笠を保存している記念館三笠
2006年01月22日

「三笠」は、東郷平八郎大将の指揮する日露戦争中の連合艦隊の旗艦でした。
日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により賠償として清国から遼東半島を割譲されましたが、強力な軍事力を極東に展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。
欧米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進しました。
「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり、明治35(1902)年3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した明治36(1903)年12月、連合艦隊に編入され、その旗艦になりました。明治37(1904)年10月、ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする第2太平洋艦隊を、次いで翌年2月15日、第3太平洋艦隊をバルト海のリバウ海軍基地から極東に派遣しました。第2、第3太平洋艦隊の総称をバルチック艦隊といいます。
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、猛訓練を続けながら待ち構えました。明治38(1905)年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は直ちに出撃、対馬沖でバルチック艦隊を迎撃し、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を撃破、降伏させました。
ワシントン軍縮条約により、日・米・英の艦艇保有隻数を制限することになり、大正12(1923)年9月、艦齢の古い「三笠」を軍艦籍から除き廃棄することを決定しましたが、日露戦争の勝利に貢献した戦艦「三笠」を、独立を守った誇りの象徴として永久に残すべきとの声が内外で高まり、記念艦としての保存が閣議決定され、国際軍事委員会においても承認されました。
当初、東京芝浦に廻航する予定でしたが、横須賀港岸壁に係留中、 関東大震災で艦底に破孔が生じ浸水したため、急遽横須賀に置くことに変更され、大正14(1925)年6月、保存工事を終えた「三笠」は、満潮時を利用して曳船により岩場を掘削した現在の場所に引き入れられ、艦首を皇居に向けて固定されました。
そして、大正15(1926)年11月12日、摂政宮殿下(後の昭和天皇)御臨席の下、盛大な保存記念式典が挙行されました。
しかし、昭和20(1945)年8月の敗戦後、ソ連代表は記念艦「三笠」を解体するよう強硬に要求しました。米海軍司令部はソ連の解体要求と日本側の保存要請を考慮し、妥協策として「三笠」の艦橋、大砲、煙突、マストなど上甲板構造物を撤去することを条件として、横須賀市に「三笠」の保存・使用を許可しました。ところが、横須賀市から「三笠」及び周辺地の使用を委託された民間企業は、上甲板構造物を撤去した跡に、水族館、ダンスホールなどを設け、「三笠」を遊興施設に変えただけでなく、「三笠」の近くに保管されていた大砲、マストなどを売却してしまいました。
昭和30(1955)年、三笠建造時の乗組員と親交が深かった英国の貿易商ルービン氏は、三笠の惨状を見て慨嘆し、その胸中をジャパンタイムスに投稿し、大きな反響を呼びました。
政財界及び旧海軍の枢要な人々が立ち上がり、昭和33(1958)年11月、三笠保存会が再興され、会長に渋沢敬三氏が、副会長には伊藤正徳、石坂泰三、澤本頼雄の三氏が、理事長に岡崎嘉平太氏がそれぞれ選出され、また、顧問には吉田茂、芦田均、小泉信三、安岡正篤、鈴木孝雄氏等が就任し、全国的な規模で「三笠」復元運動が始まりました。
そして 内外の募金1億6,000万円(米海軍の2,400万円を含む)、国の予算9,800万円とにより復元工事が実施され、観覧態勢も整い、記念艦「三笠」は往時の姿を取り戻しました。
ポーツマス(英国)に保存されている「ビクトリー」、ボストン(米国)に保存されている 「コンスティチューション」と並ぶ、世界三大記念艦として三笠公園に保存してあり、船内では日露戦争当時の物品を展示する記念館となっています。
観覧時間
4月〜9月 9:00〜17:30
3月・10月 9:00〜17:00
11月〜2月 9:00~16:30
休艦日
12月28、29、30、31日
観覧料金
一般600円、65歳以上500円、高校生300円、小・中学生無料、障害者200円
H13.9.4
Photo Canon EOS M3
H27.12.5(写真差し替え)
住所: 神奈川県横須賀市稲岡町82-19
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