烏帽子形城(河内長野市)
楠木正成が築いたといわれる烏帽子形城
2011年06月20日

烏帽子形城は正慶元(1332)年、楠木正成によって築かれたと伝えられています。
応仁の乱以後、河内守護の畠山氏の持ち城でした。
畠山氏とは、室町幕府の将軍家であった足利氏の一門であり、将軍に次ぐ高い役職であった管領に就くことができる家柄でした。また、畠山氏は、多くの国を守護として治めていましたが、この中でもこの烏帽子形城がある河内国の支配を特に重視していました。
また、烏帽子形城のすぐ東には、京都や堺から紀州へとつながる高野街道があり、付近には和泉国や大和国へ向かう道もありました。これらの道を眼下に収める戦略拠点としての烏帽子形城の価値は次第に高まっていきました。
畠山氏は、家智をめぐって度々争いを起こしていました。守護の家督を決めるためには、幕府と守護の家臣から同意を得る必要がありました。そのため、長禄4(1460)年に、管領を務め、富山氏の当主であった畠山持国の後継者をめぐっての義就と政長の争いに幕府が介入します。この幕府を巻き込んだ争いは、戦国時代の始まりとされる応仁の乱を引き起こしました。烏帽子形城が文献資料に登場するのはこの合戦の直前で文正元(1466)年のことです。烏帽子形城の築城は、戦国時代の幕開けを告げる日本史の上でも重要な城であったのです。
城主としては畠山氏の配下で地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。
そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。
畠山氏滅後の鳥帽子形城は、新たに合頭した三好氏、織田信長、羽柴(豊臣)秀吉など、次々に支配者が代わっていきました。
烏帽子形城は、織田信長が支配していたころに単なる軍事施設から、地域支配の拠点へと性格が変わったようで、この城にいた3人の武将によって周辺の村々の支配がはじまります。なお、烏帽子形城の周辺には300人ものキリシタン(キリスト教徒)がいたと言われ、3人の武将のうち2人もキリシタンで、仮の聖堂を建てようとしていたようです。
羽柴(豊臣)秀吉が天正11年(1583)に大坂城を築城したため、河内の城はすべて廃城となりました。ところが翌年、羽柴秀吉と徳川家康が天下を争った小牧・長久手の戦いが始まります。この小牧・長久手の戦いの最中、畿内では家康方として保田安政が高野山勢力と共に河内国見山城に入りました。一方、秀吉方は岸和田(岸和田市)の中村一氏を派遣して鳥帽子形城の普請をさせ、対陣させます。近畿版小牧・長久手の戦いがここで行われたのです。
烏帽子形城は、北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182mの烏帽子形山に築かれています。
主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には曲輪が造られています。
昭和63(1988)年の調査で主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。
現在は烏帽子形公園として整備されています。山城としての特徴が良く残っている点、歴史の中で果たしてきた役割が明確である点が評価されて、平成24(2012)年1月24日に国指定史跡となりました。
H23.5.6
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.3.2(写真差し替え)
住所: 大阪府河内長野市喜多町
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