しとどの窟〔土肥椙山巌窟〕(湯河原町)
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が潜んだしとどの窟
2012年01月06日
このあたりは、今から7・8百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていました。 新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので、当時を想像することができます。
このしとどの窟(土肥椙山巌窟)は、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、身を潜めていたところといわれています。
8月17日、三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り、伊豆の源氏に組する者たちを集め、 8月19日伊豆を出発し、土肥実平の道案内で日金山を越え、土肥郷(現湯河原町)に着きました。
そして土肥実平の館において作戦を練り、300騎を以て館を出発、いよいよ平家追討の旗挙をし、8月23日に石橋山に於て平家の軍勢総大将大庭景親3000余騎と戦いましたが、およそ10倍以上の敵に多勢に無勢で破れ、一旦土肥へ引返しました。そして、堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れたため、土肥実平の守護とみちびきによって 土肥の椙山に逃げかくれました。
実平のお陰で人の知らない谷底のしとどの窟や大木の洞(土肥の大杉)に隠れたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらいました。そしてこの窟に5日間隠れていました。
その時、梶原景時が、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救ったといわれています。
そして、8月28日、真鶴から安房へ向かったといわれています。
この窟は関東大震災にため入口が崩れましたが、水は一年中湧いています。しとどの窟バス停から徒歩10分〜15分程度でつきます。バス停からは谷底へ向かって歩いて行きます。
また、窟の中には観音像群が並んでいます。立像及び座像61体で、小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に 中世以後、近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料です。
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H23.12.29
住所: 神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋
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