佐用兵庫介範家が築城し、福原氏の居城だった佐用城〔福原城〕
2012年02月06日
福原城(佐用城)は、元弘3(1331)年4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうち福原氏がその城を継いだので、福原城とも呼ばれています。
戦国時代末期には、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していましたが、天正5(1577)年11月27日織田信長配下の羽柴秀吉は黒田(小寺)官兵衛と竹中半兵衛等に福原城の攻撃を命じました。
黒田、竹中隊は攻城に苦戦しましたが、蜂須賀勢の加勢により優勢となりました。蜂須賀勢は搦手から多くの鉄砲を撃ち、城兵が分散した所、大手側から黒田隊が城主を誘い出し、その隙に竹中隊が城を攻略したと「播州佐用軍記」では伝えています。
黒田家の記録「黒田家譜」では、官兵衛が三方を囲み、一方を開けておく孫子の兵法「囲師必闕」によって落城させたと記されています。
現在、城跡には福原霊社(俗に頭〔こうべ〕様)が建てられています。落城時の城主だった福原藤馬允則尚の首級を祀るための一社で土地の人々により建てられました。霊社は、土塁上にあり、社の向かって右側の平坦地が本丸跡で、現在は農地となっています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第14話「引き裂かれる姉妹」の官兵衛紀行で紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.1.28
住所: 兵庫県佐用郡佐用町福原