矢島大井氏が戦国時代居城とし、江戸時代は生駒氏の陣屋となった八森城〔矢島陣屋〕
2012年08月19日
由利十二頭の雄大井義久は、応仁元(1467)年、信州大井之庄(長野県佐久市)から下って矢島の領主となり、ここ八森の台を居城としました。四代満安は矢島五郎と称し、次第に頭角を現しました。
天正4(1576)年、院内山根城主仁賀保挙久と戦い、これを破りました。
そして、この満安は八森城を捨て新荘館に移りました。そして文禄元(1592)年、由利諸頭の総攻めを受け荒倉館へ敗走し、西馬音内の舅小野寺茂道まで逃れましたが、小野寺義通に城を囲まれたため責任を取り自刃して相果てました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後は、由利郡は最上義光の支配下に入り、最上氏家臣楯岡豊前守満茂が慶長15(1610)年本城城を築き、矢島にはの弟の長門守満広が矢島3000石を分地され入封しました。
元和8(162)年、最上氏が改易になり楯岡氏が去ると、元和9(1623)年徳川旗本となり常陸新宮に2千石を得ていた由利十二頭の打越左近光隆が入りましたが、寛永12(1635)年に、二代打越光久の没後継嗣なく断絶となりました。
その後の寛文17(1640)年、生駒騒動により改易となった讃岐高松の生駒高俊は、矢島1万石を堪忍料として与えられ矢島に入りました。
万治2(1659)年、二代高清は弟俊明に2千石を与えて伊勢居地生駒家を興させましたため8千石となりましたが、交代寄合の旗本で家格は大名格でした。当初は江戸定府でしたが、安永6(1777)年、8代親睦の時に江戸在勤を解かれ、以後参勤交代を行いました。
慶応4(1868)年、戊辰戦争に際しては、13代親敬は久保田藩とともに西軍に属し、このため、庄内の新徴組による鳥海山越えの奇襲を受け、矢島は戦場となり、奮戦むなしく陣屋を自ら焼き払い撤退しました。明治新政府成立後、石直しにより1万5千石となり諸侯に復しましたが、その後廃藩置県により廃藩となりました。
現在、城跡は矢島小学校となっています。
Photo SONY NEX-7
H24.7.14
住所: 秋田県由利本荘市矢島町城内八森6