神指城(会津若松市)
上杉景勝が直江兼続に命じて徳川家康に備えて築いた神指城
2013年01月04日

神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3(1598)年に会津の領主となった上杉景勝が、重臣「直江兼続」に命じて築城させた城です。
石田三成と力を合わせて徳川家康を討とうとした上杉景勝は、鶴ヶ城は山に近く守備に不利と見て、神指ヶ原に大規模な城郭を築くことを計画し、家老直江兼続の指揮のもと12万人の人夫を動員し、昼夜休みなく工事を急がせました。兼続の総指揮により、神指の13ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から12万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。
慶長5(1600)年3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったと言われています。
しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。
このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。
面積は、本丸だけでも約56,000㎡、二ノ丸を含む全域では約500,000㎡もあり、若松城を遥かに凌ぐ規模の壮大な城でした。この土地(高瀬の大木の場所)は二ノ丸土塁の北東隅にあたります。
この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城、築城地として適していたためと考えられます。
そして、関ヶ原の戦いは家康の勝利に終わり、慶長6(1601)年には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
寛永16(1639)年、加藤嘉明、明成父子の鶴ヶ城の改築の際には神指城の石垣を全て鶴ヶ城に運び去りました。
このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
二ノ丸北東隅には高瀬の大木(ケヤキ)があります。築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64mあります。大枝の折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきましたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものです。
(説明看板より)
高瀬の大木付近の土塁がわかりやすいですが、本丸付近にも土塁が残っています。但し、訪れた時は雪で遺構などははっきりとはわかりにくかったです。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.12.28
写真上、みんカラマップ:高瀬の大木
写真下、関連情報URL:本丸付近
住所: 福島県会津若松市神指町本丸、神指町高瀬ほか
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