阿弥陀寺(会津若松市)
会津藩士及び新選組斎藤一が眠る、本堂は鶴ヶ城御三階・阿弥陀寺
2013年01月06日

阿弥陀寺は山号は正覚山、浄土宗の寺院です。
慶長8(1603)年、鶴ヶ城主が蒲生秀行の時代に下野国出身の良然和尚が開山しました。
明治元(1868)年の戊辰戦争の後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌明治2(1869)年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。
春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれています。
現在の阿弥陀寺本堂は旧鶴ヶ城の御三階が移築されたもので、玄関は同大書院玄関を移したものです。
御三階は藩政時代、藩公の密議また月見などされた所です。
境内にかつて青銅1丈3尺の大仏があったが、太平洋戦争中供出し台座のみ残っています。
正面の拝礼殿には明治戊辰戦争役会津藩殉難者の霊及び家老萱野権兵衛の木造を安置しています。萱野権兵衛(1500石)は戊辰の役諸処に転戦しましたが、会津藩抗戦の責任を負い明治2(1869)年5月18日江戸保科邸にて割腹自刃しました。享年42歳でした。
後に西南役の戦死者・佐川官兵衛他68名を合祀しました。官兵衛は戊辰戦争の際鬼佐川と呼ばれた勇将で、明治10(1877)年の西南役山地元治将軍の麾下にあって戦死し、其子直諒は日露の役遼陽に戦死しました。
また、境内には斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
斎藤一は、天保15(1844)年御家人の父・山口祐助、母マスとの間に生まれ、初名を山口一、のち斎藤一に改めました。
文久3(1863)年壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦しました。その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時、伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し山口二郎と改名しました。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦いました。しかし西軍が城下に迫った時「会津侯(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れました。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉されました。明治3(1870)年斗南へ移る際藤田五郎と改名しました。
その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚しました。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍し、後に東京教育博物館等へ奉職し、大正4(1915)年72歳で逝去しました。
後半生を会津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っています。
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.12.28
住所: 福島県会津若松市七日町4-20
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