日新館跡(会津若松市)
日本三大藩校に数えられた会津藩校・日新館跡
2013年01月11日
日新館は江戸時代、全国300諸藩の中でも随一との評判の藩校でした。
寛政11(1799)年、家老田中玄宰(はるなか)の尽力により日新館が着工しました。
享和3(1803)年、鶴ヶ城の西隣7千余坪の敷地に、1千人もの生徒が集う学問の殿堂が、5年の歳月を費やして完成しました。
「書経」の「日日新而又日新」と、「易経」の「日新之謂盛徳」から名付けられました。
日新館は日本三大藩校に数えられ、優秀な人物を輩出しました。のちに白虎隊士らも学びました。
慶応4(1868)年、戊辰戦争により校舎は焼失しました
日新館を設立した田中玄宰は、代々会津藩の家老を務めた田中家の出です。玄宰は寛政時代、財政逼迫にあえいでいた会津藩を見事な改革案で立て直したことで有名です。
会津藩は天明2(1872)年〜3(1873)年に大変な冷害を受けました。特に天明3(1873)年は餓死者も出るほどの大飢饉となり、藩も膨大な赤字を抱えました。
儒学を学び、34歳で家老となった田中玄宰はこの時、藩主松平容頌に藩政の抜本的改革を願い出ますが、許されず一度は職を辞します。しかし、天明5(1875)年に再び家老に任命され、天明7(1877)年にもう一度藩主に改革案を提出し、認められ有名な「寛政の改革」が実施されます。玄宰がすすめた殖産興業や軍制、学制改革は、多方面で大きな成果を上げます。特にその功に挙げられるのが藩校日新館の創設です。玄宰の改革が、文武と共に天下の雄藩と呼ばれる礎をつくったのです。
「我が骨は城と日新館の見えるところに埋めよ」という遺言に従い、小田山山頂に墓があります。
(説明看板などより)
Photo SONY NEX-7
H24.12.28
住所: 福島県会津若松市米代1-2-4
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