光明寺(会津若松市)
山本覚馬・八重の父権八が眠る光明寺
2013年01月18日
光明寺は天台宗の寺院です。
慶応4(1868)年、戊辰戦争の際に鶴ヶ城の南側に位置する一ノ堰は、城への食料補給路の確保をめぐって会津藩軍と新政府軍による激しい戦闘が繰り広げられた場所で、小田山、青木、御山、堤沢、面川、雨屋、新村、中野、井出、徳久、羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していました。
旧暦9月15日、17日の2回にわたる激戦がこの一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出しました。
しかし、東軍(会津軍)の兵士の遺体は、そのまま放置されていました。会津兵の遺体は埋葬されることが禁じられ、現在の供養碑は明治2(1869)年になってから、戦死した会津兵の遺体を収容し、光明寺境内に埋葬されました。
一ノ堰で戦死した会津兵は67人とされていますが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人で、残りの19人の埋葬先は未だに不明です。
本堂の前に戦死者の墓碑が建っています。一之瀬要人は会津藩家老で千三百石取。戊辰戦争では越後方面の総督となり、各地に転戦し、22日に死亡しました。会津藩家老では唯一の戦死者で享年37歳でした。
山本権八は、山本覚馬、山本(新島)八重の父で玄武隊に参加しており、9月17日一ノ堰で戦死しました。享年61歳でした。
有賀久左衛門は玄武隊に参加、9月17日一ノ堰で戦死しました。享年56歳でした。
田原重義は田原四郎の父で玄武隊伊与田隊に参加し、9月17日一ノ堰で戦死しました。享年44歳でした。
(説明看板などより)
Photo SONY NEX-7
H24.12.29
住所: 福島県会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500
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