第32軍司令部壕(那覇市)
沖縄戦の際の第32軍司令部の地下壕跡・第32司令部壕
2013年04月23日
昭和19(1944)年3月、南西諸島の防衛を目的に、第32軍が創設されました。同年12月、司令部壕の構築がはじめられ、沖縄師範学校など多くの学生や地域住民が動員されました。昭和20(1945)年3月、空襲が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動し、米軍との決戦にそなえました。
壕内は五つの坑道で結ばれていましたが、現在、抗口は塞がれ、中に入ることはできません。
司令部壕内には、牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属・学徒、女性軍属などが雑居していました。戦闘指揮に必要な施設・設備が完備され、通路の両側には兵隊の二、三段ベッドが並べられました。壕生活は立ちこめる熱気と、湿気や異様な臭いとの闘いでもありました。
昭和20(1945)年5月22日、日本軍司令部は、沖縄島南部の摩文仁への撤退を決定しました。本土決戦を遅らせるための、沖縄を「捨て石」にした持久作戦をとるためでした。5月27日夜、本格的な撤退が始まり、司令部壕の主要部分と抗口は破壊されました。司令部の撤退に伴う、軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました。5月31日首里は米軍に占領されましたが、沖縄戦によって、首里城正殿をはじめとする琉球王国の歴史を物語る貴重な文化財は失われてしまいました。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.3.22
住所: 沖縄県那覇市首里当蔵町3丁目
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