ひめゆりの塔(糸満市)
「ひめゆり学徒隊」の悲劇を今に伝えるひめゆりの塔
2013年05月05日
米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来で、「ひめゆり学徒隊」といわれます。
3月26日、米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸し、米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒達は後送されてくる負傷兵の看護等に追われ、仮眠をとる間もなくなっていきます。
5月下旬米軍が迫る中、学徒達は日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。
移動先の安静ももつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日、学徒達は突然の「解散命令」が出されました。翌19日、第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれて地獄絵図と化しました。
第一外科壕、第二外科壕は攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出しましたが、その後の激しい戦闘で多くの方がなくなりました。陸軍病院に動員された教師・学徒240人中136人、在地部隊その他で90人が亡くなりました。
戦争が済み、二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕が探し当てられ、真和志村民の協力により、昭和21(1946)年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.3.23
住所: 沖縄県糸満市字伊原671-1
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