芹沢鴨生家跡(行方市・旧玉造町)
新選組の筆頭局長・芹沢鴨生家跡
2013年08月08日
新選組の筆頭局長、芹沢鴨の生家跡です。
現在も芹沢家の子孫の所有だそうですが、人は住んでいないそうです。また、非公開で中に入ることはできません。
現存する建物は昭和のものだそうです。
新選組の筆頭局長、芹沢鴨は、玉造町芹澤の出身で、上席郷士、芹沢貞幹の三男として生まれ幼名を弦太と言いました。
15歳の頃、郷校で医学を学んだが尊皇攘夷の思想に共鳴して天狗党の前身である天狗組と行動を共にするようになりました。
当時の名は下村継次と名乗っており、剣は、神道無念流の戸ヶ崎熊太郎に師事し、免許皆伝・師範役の腕前で居合でも免許皆伝の域に達していたといいます。
その後、安政6(1859)年、勅書返納を阻止するための長岡事件にも接点があったことと推定されています。
名前も芹沢鴨と改め文久3(1863)年には、清河八郎の浪士組に、同郷の平間重助と共に参加しました。
京に着いた浪士組のうち清河八郎らは江戸へ戻ったが、芹澤鴨・平間重助は、近藤勇・土方歳三らと共に京都に残り新選組を結成しました。
筆頭局長に押された芹澤鴨は、近藤達と、京都の治安維持にあたっていました。
しかし、近藤派との対立が目立つようになり、文久3(1863)年9月16日(18日説有り)京都の八木邸で近藤派の土方歳三らによって斬殺されました。
時に38歳でした。
墓地は京都の壬生寺にあります。
平間重助も同宿していたが運良く難を逃れることができました。
芹澤鴨については、乱行のことなどが多く伝えられていますが、一面ではスケールの大きい人物だったようで、永倉新八の回想録では「国家有事の時に横死したことは、国家的損害だったと心ある者の一致するところであった。」と述べています。
(現地説明板より)
Photo SONY NEX-7
H25.7.13
住所: 茨城県行方市芹沢
関連リンク
タグ
地図
関連情報