水戸殉難志士の墓(水戸市)
幕末の犠牲者の墓・水戸殉難志士の墓
2013年08月24日
元治元(1864)年春、「元治甲子の変」いわゆる「天狗党の変」が起こり、筑波山においての挙兵で水戸藩内の動揺が甚だしくなり、鎮撫のために藩主徳川慶篤の名代として宍戸藩主松平大炊頭頼徳が水戸へ下りました。その護衛のため、榊原新左衛門照煦等はこれに随い、武田伊賀守正生(耕雲斎)も加わりました。
その反対派の市川三左衛門弘美等は水戸城を占拠し、その入城を拒み、戦端が開かれました。
頼徳等は那珂湊に拠り、筑波山の天狗党も合流して攻防の激戦が繰り広げられました。那珂湊において幕府軍に降伏した水戸藩執政榊原新左衛門等1千余の志士は、茨城古河、千葉館山、埼玉川越、東京佃島等十数カ所の獄舎、寺院に幽閉されました。
降伏から明治維新により救出開放される4年間に斬死、幽死、獄死した志士の数は、4百人とも5百人とも云われています。
明治2(1869)年、新政府の初代の水戸藩知事となった徳川昭武は、明治維新の礎として殉難したこれらの志士の遺骸を収容して、常磐共有墓地の一角(現回天神社境内)に埋葬し、同所に「殉難」碑を建立、慰霊顕彰しました。
大正3(1914)年、「元治甲子の変」より50年を期して斎行された慰霊祭を機に、殉難志士の氏名、年齢、死因、殉難地を調査した結果、371名について判明し、その氏名を刻して墓を建てたのが現在の1号墓所、2号墓所であり、その墓列の総延長は370余メートルと長大なものとなりました。
昭和8(1933)年、安政の大獄以後の水戸藩勤皇殉難志士忠魂塔が建てられ、昭和44(1969)年にはこれらの霊を祀る回天神社が創建されています。
水戸殉難志士の墓は、昭和29(1954)年、水戸市指定史跡に指定されました。
大政奉還130年目にあたる平成9(1997)年秋、水戸市の補助、遺族、崇敬者の寄金、回天神社の拠金により改修事業に着手、平成10(1998)年春に完了しました。
平成23(2011)年3月11日、東日本大震災により倒壊しましたが、復旧工事が行われ10月14日に記念碑が建立されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.7.14
住所: 茨城県水戸市松本町13-33
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