小田城(つくば市・旧筑波町)
北畠親房が神皇正統記を記したことでも知られる小田氏の居城・小田城
2013年08月26日

小田城は小田氏の居城です。小田氏は関東八屋形(千葉、小山、佐竹、結城、宇都宮、長沼、那須、小田)の一つに数えられた家柄です。
小田氏の祖、八田知家は源頼朝の信任が厚く、最初の常陸守護に任じられ、建久4(1193)年には多気大掾氏を失脚させ、常陸における地位を安定させました。
しかし、北条氏の勢力拡大により所領は縮小し、守護職も正和4(1315)年までには完全に失ったと思われます。
小田氏が小田を本拠とする時期は、初代の八田知家から、或いは小田を名乗りはじめる4代時知からなどの諸説があります。
7代治久は、勢力回復を目指し元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇の建武新政府に参加し、南北朝分裂時には南朝方につきました。
暦応元(1338)年に南朝方の重臣北畠親房を迎えたことにより、小田城は関東における南朝方の一大拠点となりました。親房の「神皇正統記」は、この時に執筆されました。
しかし、暦応2(1339)年から北朝方の高師冬に攻撃を受け、暦応4(1341)年に治久は降伏し、北朝方に従います。
8代孝朝の時代には足利氏への忠誠から旧領の大半を回復しますが、鎌倉府に反抗した小山若犬丸をかくまったために討伐を受け、再度忍従を強いられました。
戦国時代になると、13代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、14代政治は再び勢力を拡大させ、江戸氏・大掾氏・結城氏などと戦いました。
15代小田氏治は佐竹氏、結城氏などに攻められ、 小田城は何度も落城しますが、その都度、土浦城へ逃れ奪還を繰り返しました。しかし、永禄12(1569)年の佐竹氏との手這坂(てばいざか)の合戦での敗走以後は、それも叶いませんでした。
天正11(1583)年に小田氏治は佐竹義重に一時降伏、同18(1590)年に反旗を翻しますが奪還は果たせず、慶長6(1601)年に結城秀康に随い、越前に移りました。
小田城を佐竹氏は梶原政景、佐竹氏一族の小場義成が居城しますが、慶長7(1602)年に佐竹氏は秋田へ国替えされ、小田城も廃城となりました。その後は一時幕府領となり陣屋が置かれたこともありました。
小田城は、本丸を中心に三重の塀と土塁に囲まれた平城でした。
昭和10(1935)年6月7日に約21.5haが国の史跡に指定されました。
つくば市では平成8(1996)年度から史跡の南半分の土地の公有化に着手し、平成9年(1997)度より史跡の内容を確認する部分的な調査を、平成16(2004)年度から本丸跡と周辺の曲輪で面的な発掘調査が行われました。
平成21(2009)年度から整備工事が行われ、中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして整備される予定です。
平成25(2013)年7月現在、工事中のため中には入れません。外からのみの見学です。
Photo SONY NEX-7
H25.7.15
住所: 茨城県つくば市小田
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