土浦城(土浦市)
現在は亀城公園として整備されている土浦城
2013年08月26日

土浦城が最初に築かれた時期は不明です。
平将門が砦を築いたという伝説がありますが、確かなのは室町時代の永享年間(1429~1441年)に小田城主小田氏に属する若泉氏が築いたものと伝えられています。
戦国時代には永正13(1516)年、若泉五郎左衛門の時代に小田氏の武将、菅谷勝貞に城は奪われ、信太範貞を城主としました。その後、菅谷勝貞が土浦城主となりました。
そして、小田氏治は佐竹氏の攻撃を受けたため、小田城を逃れた際、菅谷政貞と範政父子は土浦城に迎え入れました。
しかし、天正13(1583)年、小田氏治は佐竹氏の軍門に降り、天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田氏は参陣しなかったため改易されました。
徳川家康が関東に入封すると、次男結城秀康に結城城とともに土浦を与え、土浦城は支城となりました。
関ヶ原の戦いの後、結城秀康は越前北ノ庄に転封となり、藤井松平氏の松平信一が城主となりました。
元和3(1617)年、松平信吉は上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封しました。西尾氏は忠永、忠照と続き、慶安2(1649)年、朽木稙綱が城主となりました。そして、朽木稙昌が寛文9(1669)年、福知山に移封されると土屋数直が4万5千石で入封します。
土屋政直が一旦天和2(1682)年、駿河田中藩に移封され、松平信綱の五男松平信興が入封しますが、状況4(1687)年、大坂城代に任ぜられ、再び土屋政直が城主となり、その後は土屋氏が代々城主でした。
明治6(1873)年、土浦城は廃城となり、本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われました。
本丸の他の建造物もほとんど残されましたが、土塁上の塀は取り壊され、二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められました。
明治17(1884)年に火災で本丸御殿が失われ、このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去されました。
昭和10(1935)年には亀城公園として本格的に整備されました。
西櫓も昭和24(1949)年のキティ台風により破損したため、後に復元を前提として取り壊されました。
昭和27(1952)年には櫓門とともに茨城県指定史跡となりました。
平成3(1991)年に西櫓が復元され、平成10(1998)年には東櫓が復元されました。
東櫓は土浦市立博物館の付属展示館となり、土浦城の紹介をしています。
櫓門は本丸の楼門であったが、明暦2(1656)年、5代城主の朽木稙綱(くつきたねつな)が瓦葺入母屋造り単層の櫓門に改築したもので、太鼓櫓の別称は、二階に大太鼓を備え、定時になると打ち鳴らしたのでこの名がついたとされ、昭和61(1986)年〜昭和62(1987)年に解体修理が行われました。本丸にある櫓門としては関東地方には唯一現存するものです。
そのほか、亀城公園内には、土浦城旧前川口門、亀城のシイ(樹齢500年、県指定天然記念物)、土屋神社(旧藩主土屋家の氏神)、聖徳太子堂、高田保句碑(土浦出身の劇作家) 、原脩次郎君之像、山村才助贈位紀恩之碑(江戸時代の世界地理研究の先駆者)等があります。
Photo SONY NEX-7
H25.7.15
住所: 茨城県土浦市中央1丁目13
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