唐沢山城(佐野市)
関東七名城の一つで関東一の名城と称される唐沢山城
2013年09月16日

唐沢山城は、藤原秀郷により築城されたといわれています。
関東七名城の一つに数えられています。
秀郷はこの城を中心に天慶の乱を鎮定し大功をたて、鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで勢力を振るいました。
そして、秀郷の子孫・佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされています。
戦国時代、佐野昌綱は北条氏と上杉氏の狭間で生き残ることに腐心していました。
永禄2年(1559)年〔永禄3(1560)年とも〕、北条氏康の子・氏政率いる3万余の大軍が唐沢山城を攻撃すると、昌綱は長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請し、景虎は寡兵で北条軍を破ったとされています。
その後、永禄4(1561)年〜元亀元(1570)年にかけて、約10度にわたって上杉謙信は、唐沢山城に攻めかけました。
昌綱は唐沢山城に篭城して時に撃退し、時に降伏し上杉軍が越後へ去って北条軍が攻め寄せると今度は北条氏に降伏し、再び上杉軍が攻め寄せると上杉氏に降伏するという臨機応変な状況判断で凌ぎ、唐沢山城は関東七名城という名とともに「関東一の名城」といわれるようになりました。
昌綱の子・佐野宗綱が天正13(1585)年、足利長尾氏の当主長尾顕長との争いで戦死し、北条氏政の弟に当たる北条氏忠を養嗣子に迎えて後を継がせるか、佐竹義重の息子を迎えるかで家臣団が対立すると、天正14(1586)年、後北条氏はに唐沢山城に強引に占拠し、氏忠が宗綱の養子として佐野氏を継ぎました。しかし、天正18(1590)年、北条氏が滅亡すると、佐野氏は一族の房綱が継ぎました。
房綱は養子に秀吉の家臣・富田信高の弟に当たる信種を迎えました。信種は佐野信吉と改名し、天正20(1592)年、家督を継ぎました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは信吉は東軍に味方し、3万5千石の旧領を安堵されましたが、慶長7(1602)年、唐沢山の麓に佐野城が築かれ唐沢山城は廃城となりました。
廃城となった理由として江戸に火災があったとき、佐野信吉は山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じましたが、江戸を見下ろせる所に城があることを危惧した幕府が、廃城を命じたと云われています。
明治16(1883)年、本丸跡に藤原秀郷を祀る唐沢山神社が建てられました。
平成29(2017)年4月6日、続日本100名城(114番)に選定された
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.8.31
住所: 栃木県佐野市富士町1409
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