新島襄旧宅(安中市)
安中藩士だった新島襄が帰国後、日本での活動を始める第一歩となった新島襄旧宅
2013年09月18日

新島襄は、天保14(1843)年に安中藩士新島民治の長男として安中藩江戸屋敷で生まれました。襄の幼名は七五三太(しめた)といいました。襄は秀才の誉れ高く、若干13歳で藩主に蘭学修行を命じられ、この蘭学修行中に漢訳の聖書によって神の存在を知った襄は、元治元(1865)年国禁を破り米国船に乗り込んで脱国し上海へ渡り、更にそこから米国船を乗り継いでボストンに入りました。この時の船長テイラーがジョーと名付けたことから、後に新島襄と名乗る様になりました。米国では、フィリップスアカデミーやアーモスト大学を卒業しました。
明治5(1872)年岩倉使節団への通訳協力が要請され、これに先駆けて明治政府より脱国の罪が許され「米国留学免許」が発行されるという超法規的な手続きがとられました。後の教育使節団にも同行、米国内はもとよりイギリス・スイス・ロシア・オランダ・デンマーク、などヨーロッパ各地を視察しました。帰米後、アンドーヴァー神学校に入学して牧師試験に合格しています。
明治7(1874)年に日本に帰国した襄は、すぐさま両親の待つ懐かしい安中へ向かいました。そして両親と10年ぶりの再会を果たしました。
ここは新島襄が、まさに十年間にわたるアメリカでの苦学を活かして日本での活動を始める第一歩となったところです。
安中には3週間程滞在しただけで、すぐに任地である神戸へ向かわざるを得ませんでした。彼にはまた、副牧師として布教という使命があったのです。
以後ほとんど故郷に帰ることなく、キリスト教精神に基づく大学の設立と布教という2大目的に襄は東奔西走し、その端緒として同志社英学校(現在の同志社大学)を京都に設立します。しかし、志半ばで病に倒れ、46歳でその生涯を終えました。
安中での滞在は短いものでしたが、新島襄の説教に衝撃を受けた人々の中から湯浅治郎をはじめとするキリスト教信者が30人も生まれ、やがて安中教会が設立されました。
このような新島襄の教育家・宗教家としての情熱は、湯浅治郎・徳富蘇峰、柏木義円ら多くの心酔者を生み、襄の死後もその志を継ぐものは日本中に広がり、日本の教育・思想に大きな影響を与えたといわれています。
明治9(1876)年に新島襄は八重と結婚し、両親や姉らを安中から京へ迎えました。新島家が京都に引っ越した後、その居所である長屋には他家の人が住んでいましたが、昭和37(1962)年11月、これが空き家になったのを機会に保存運動が盛り上がり、当時の萩原市長を会長とし市商工会長湯浅正次らを副会長として「新島襄先生旧宅保存会」が結成されました。その後、安中市でこれを購入、二軒長屋のうち新島家が住んでいた東半分を切り離して50mほど西に移築し、西半分は新築し展示室と管理人室とし、外観は元通りの二軒長屋として復元しました。昭和39(1964)年11月3日午後1時から群馬県立蚕糸高等学校(当時)の体育館で落成式が行われました。復元事業は、市内の小中学生を始め、多くの善意の寄付によるものです。そして同年12月30日に「新島襄旧宅」は安中市指定史跡となりました。
旧宅の北側にある古墳公園(旧安中町6号墳)には半田善四郎が建立した湯浅半月撰文による「新島襄先生の碑」や、安中藩主板倉勝明の殖産事業の経緯を記した「漆園の記碑」(市指定文化財)、更には新体詩「十二の石塚」の一節を刻んだ「湯浅半月詩碑」など、新島襄ゆかりの碑が建っています。
(説明パンフレットなどより)
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
ただし、冬期(12月~2月)は9:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜休館(月曜が祝日の場合はその翌平日)
年末年始休館(12月28日~翌1月4日)
入館料 無料
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.8.31
住所: 群馬県安中市安中1-7-30
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