上月城(佐用町・旧上月町)
織田・毛利の上月合戦で知られる上月城
2006年03月25日

上月城は、鎌倉末期に上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたのが始まりとされています。
上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続きますが、上月氏はその間に荒神山、現在の上月城址に移りました。
弘治2(1555)年赤松政則の孫赤松政之が置塩城より上月城に入りました。
上月城は、鎌倉時代末期に上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたのが始まりとされています。
上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続きますが、上月氏はその間に谷を隔てた南側の荒神山に移したと推定されます。これが現在の上月城址で、中世山城の形態を良く残しています。
赤松氏は、播磨・備前・美作三ヶ国の守護など大きな勢力を持っていましたが、嘉吉の乱で惣領家が没略することになり、播磨も山名氏の支配する所になりました。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復することになりますが、山名、赤松、尼子などが攻防を繰り広げることになります。
弘治2(1555)年赤松政則の孫赤松政之が置塩城より上月城に入りました。
天正5(1577)年、織田信長は毛利氏攻めのため、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に組した福原則尚(則就)が守る佐用の福原城を攻略し、高倉山を本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日に遂に落城し、上月城主赤松政範は自刃して果てました。秀吉は城中将士の首を悉くはねた上、見せしめのため城中の女子子供200人を串刺と磔にして備前美作播磨の国境付近にさらしました。(第1次上月合戦)。
上月城を落した秀吉は、出雲奪還をはかる尼子勝久、山中鹿介に上月城の守備に残しました。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしましたが再び秀吉軍により落城したとされます。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられます。
再び尼子勝久、山中鹿介は上月城に入りましたが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6(1578)年4月18日、上月城を包囲しました。秀吉は急ぎ救援のため、高倉山に陣を進めましたが、信長の命で三木城の別所氏攻略のため、6月26日高倉山より兵を引きました。
このため上月城は孤立し遂に7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃しました。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、備中高梁・阿井の渡しで殺されてしまいました。
城大手門付近には尼子勝久や山中鹿介の慰霊塔、本丸には文政8(1825)年赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が250回忌を営んだ際に建立した赤松政範の慰霊碑が建っています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」第14話「引き裂かれる姉妹」の官兵衛紀行で紹介されました。
駐車場 上月城公園 歴史資料館の駐車場を利用 徒歩20分程度で、本丸まで登ることが出来ます。
※平成17(2005)年9月30日に上月町は佐用町・三日月町・南光町と合併し、佐用町となりました。
H18.3.24
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.4.19(写真差し替え)
住所: 兵庫県佐用郡佐用町上月
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