鏡山城(東広島市)
大内・尼子の衝突の舞台となった鏡山城
2006年03月26日
鏡山城は鏡城とも呼ばれ、山口の守護大名大内氏の安芸国支配の拠点として築かれました。古文書等に初めてその名が見えるのは寛正6(1465)年頃と考えら
れる小早川熙平宛細川勝元感状写(小早川家証文)ですが、築城の時期は、出土遺物などから南北朝時代の後半から室町時代にかけてと考えられています。
鏡山城のある西条盆地は、室町時代には東西条と呼ばれ、南北朝時代の1360年代以降、大内氏の領地となっていました。東西条の範囲は大内氏の勢力伸長とともに拡大し、志和、高屋、造賀を除く賀茂郡域のほぼすべてと、旧豊田郡の安芸津や安芸郡の熊野にまで及ぶ広い範囲でした。
大内氏は鏡山城に「東西条代官」を置き重臣を任命し安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる目的で築いたものです。安芸国は、大内氏と海外貿易めぐって対立する細川氏との接点となっていたため、鏡山城をめぐって攻防が繰り返され、特に応仁の乱では、主要な舞台の一つとして激しい戦いが行われました。戦国時代、大内義興は蔵田房信を城主としました。大永3(1523)年、出雲の尼子経久により毛利元就ら芸備の諸将とともに攻撃を行いましたがなかなか落城しませんでした。この時、元就は房信の叔父直信を調略により、寝返らす事に成功し、落城させましたが、経久は本家を裏切るなど武士の風上にも置けないと直信を処刑したため、元就は面目を失い、元就が大内方武将となった遠因ともいわれていますが、どうなんでしょう?
大永5 (1525年)年、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、その拠点は盆地西方の杣城、槌山城に移され、鏡山城はその役割を終えました。
城跡は、鏡山公園となっています。公園入口に石碑と説明看板があり、登城していくと石垣や井戸跡、土塁などが一部残っています。
平成10(1998)年1月14日、国の史跡に指定されました。
H10.11.2
Photo Canon EOS 30D
H20.6.13(写真差し替え)
住所: 広島県東広島市鏡山2丁目
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