旧岩国藩家老吉川氏屋敷跡(岩国市)
平成23(2011)年に長屋が解体・旧岩国藩家老吉川氏屋敷跡
2013年12月31日

駿河を拠点として活動していた吉川氏は、正和2(1313)年、吉川経高の代に弟たちとともに安芸に拠点を移しました。
これが安芸吉川氏であり、後の初代岩国藩主吉川広家はその直系にあたります。
それに対し、吉川経高とともに安芸に移った弟の一人、吉川経茂は、後に石見に領土を得て移り住んだため、石見吉川氏と呼ばれています。
天正9(1581)年、織田信長の命により中国地方に進出した羽柴秀吉は、鳥取城へ軍を進めました。
このとき、鳥取城主であった山名豊国は、羽柴秀吉に降伏しようとしましたが、降伏を望まない家臣の中村春続・森下道誉が、山名豊国を城外へ追い出し、安芸の吉川元春に城将の派遣を願いました。
それをうけた吉川元春は、石見吉川氏10代目にあたる吉川経家を鳥取城へ派遣することとしました。部下とともに入城し、決死の覚悟で守る吉川経家に対し、羽柴秀吉は、2万の大軍を率い、三里四方にわたる大規模な包囲網をしき、また、織田軍による外部からの輸送の遮断によって、鳥取城を兵糧攻めすることとしました。
悪条件の中、吉川経家は抵抗を続けよく守りましたが、時とともに鳥取城内には餓死者も増え、これ以上の抵抗は死者を増やすだけであると判断し、責任者以外の城兵の助命を条件に開城条約を結ぶことを決意しました。
羽柴秀吉側の提示した条件は、主君山名豊国を追い出して今回の戦いの原因を作った中村春続・森下道誉ほか数名の切腹を求める一方、吉川経家をはじめ、安芸から派遣された城兵の命は助けるというものでした。これに対し吉川経家は、主君山名豊国に対しては不忠であったが、毛利氏や吉川氏に対し功績のあった中村春続・森下道誉の2名の助命と、派遣されたとはいえ、城将となった責任として吉川経家自身の切腹を願い出ました。
双方の意見が分かれ、羽柴秀吉としても、吉川経家のような義にあつい人物を殺すにしのびず説得を続けましたが、合意には至らず、結局、吉川経家の切腹を認め、吉川経家も中村春続らの切腹を受け入れることとしました。天正9(1581)年10月25日、経家は自刃し、35歳の若さでこの世を去りました。
そして、鳥取城は開城し、条約を守った羽柴秀吉によって多くの城兵はそ命を救われることとなりました。
吉川経家の子経実は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従って岩国に入り、その後は代々岩国藩の家老を務めました。
この地は家老として仕えた石見吉川氏の屋敷地であった場所であり、江戸中期頃建築された長屋が遺構として残っていましたが、老朽化により平成23(2011)年に解体されました。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.12.26
住所: 山口県岩国市横山2丁目
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