大田・絵堂の戦いの開戦地、絵堂の開戦地にある大田絵堂戦跡記念碑
2014年01月15日
元治元(1864)年の第一次長州征伐以来、長州藩は保守派(俗論党)が藩政府の要職に当たっていたので、進歩派(正義党)の人々はことごとく処刑されるか、難を逃れ身を潜めていました。
筑前の野村望東尼の平尾山荘に潜伏していた高杉晋作は、12月についに下関功山寺において挙兵し、山形狂介(有朋)等諸隊もこれに呼応して、萩政府軍と対峙することとなりました。
明けて元治2(1865)年正月6日夜半、諸隊は天宮慎太郎を斥侯司令とし、伊佐から秋吉台を通り赤間関街道を進軍し、7日未明中村芳乃介・田中敏助の両名が戦書を俗論党粟屋帯刀の本陣(現・柳井氏宅)に投じ、帰隊するや否や1発の砲声と共に奇襲しました。作戦は成功し、萩政府軍(俗論党)は明木へ敗退し、諸隊はここ絵堂の地が攻守共に不利なため大田に転陣しました。
戦死者は諸隊3名、萩政府軍5名でした。
記念碑と隣接して萩政府軍本陣跡の門が移築されています。
大田・絵堂の戦いにおいて萩政府軍の本陣となった絵堂・旧柳井邸の門で、元は北方200m先の町筋にありました。
平成17(2005)年県道改良工事に伴い、旧美東町へ寄付され、本地に移設したものです。
この門には、本戦役の開戦となる元治2(1865)年1月6日未明、諸隊の斥侯隊が政府軍陣営に夜襲をした際、打ち込んだ銃弾の貫通痕が残っています。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.12.27
住所: 山口県美祢市美東町絵堂