福屋氏、福光氏の居城で後に石見吉川氏の居城となった福光城〔不言城・物不言城〕
2014年02月10日
福光城(不言城・物不言城)は、当初福屋氏、福光氏の居城でしたが、永禄2(1559)年石見地方に侵攻した毛利元就は、川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に、福光氏の所領を与えました。
これを機に、吉川経安は嘉暦3(1328)年より200年にわたって拠点としていた津渕保の殿村城(高越城)(大田市温泉津町井田)から、不言城に居を移し、改修して居城としました。
福光城(不言城・物不言城)は、本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っている本格的な山城であり、地理的にも石見銀山、温泉津港の押さえとして重要な役割を果たしていました。
古今の名将の一人として名をはせた福光城(不言城)城主・吉川経家は、9代目経安の子です。天正9(1581)年、経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の部将として、鳥取城に入城し、秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7カ月の籠城ののち、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃しました。
経家は、その遺書の中で「日本二つの御弓矢(織田氏と毛利氏)の衝突の中で切腹するのは末代までの名誉だ」と記しました。義に殉じた吉川経家の菩提を弔う法要が、現在も10年に1度、鳥取市民により盛大に行われています。
慶長6(1601)年、経家の子・吉川経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、福光城(不言城)はその歴史を閉じました。
(現地説明板などより)
城跡には楞厳寺から登ることができます。一般的には福光城や物不言城(ものいわずじょう)の名で知られていますが、地元ではもっぱら不言城(ふげんじょう)と呼ばれています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.12.30
住所: 島根県大田市温泉津町福光ハ-67