弘道館跡(豊岡市・旧出石町)
宝永3(1706)年、仙石政明(真竜公)が上田から出石にお国替えになりました。
一代後の藩主仙石政辰(実相公)は後を継がれたとき、文武を盛んにしなければ充分な治世ができないと考え、安永4(1772)年儒学者桜井篤忠(東亭)に命じて、はじめて学校を創設し、藩士に文武を学ぶことを奨励しました。
次の藩主仙石久行(大慈公)は、さらに篤忠に命じて学校を拡張させ、「弘道館」の三文字を自らお書きになり、これを建物に掲げさせました。
次の藩主仙石久道(天真公)は篤忠の子、桜井維温(東門)に命じ、さらに孔子を祀る建物を弘道館内に建てさせました。
明治維新の時代を迎え、ここ弘道館からは多田立徳(弥太郎)・高橋重健(甲太郎)・加藤弘之・新井晴簡など文武に秀でた士が多く輩出されました。同名の水戸の「弘道館」などがよく知られていますが、出石藩の弘道館が最も古く、その名は「論語」の一説から名づけられています。弘道館への入学は藩士の子弟に限られ、学費は不要でした。明治維新前には生徒数は200名を数え、50人あまりの職員が漢学をはじめ和学、兵学、剣槍などを教授しました。
明治9(1876)年3月出石で火事があり、大風がこれを煽り、900余の建物が焼け、弘道館の建物もまったくなくなってしまいました。
福富出石町長は煙と消えた址をみて、郷土の人々と相談し、この建物址に碑を建てることとし、文面は桜井勉が記すこととなり、大正元(1912)年9月1日に石碑が建立されました。(現地説明板より)
Photo SONY NEX-7
H26.1.13
住所: 兵庫県豊岡市出石町伊木
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