松原八幡神社(姫路市)
「灘のけんか祭り」で知られる松原八幡神社
2014年03月30日

松原八幡神社は、天平宝字7(763)年豊前宇佐八幡宮から分霊を勧請して創建としたといわれ、妻鹿の漁人久津の網に「八幡」と書かれた一尺ばかりの霊木を海中から拾い上げたと伝えられています。
息長足比売命・品陀和気命・比咩大神の三神を祀り旧県社です。
平安時代に石清水八幡宮領松原荘の総鎮守となり、鎌倉時代には八幡大菩薩垂迹の地として崇敬を集め、一遍上人が参詣したことでも知られています。
南北朝時代の「峯相記」には、「社頭繁昌」し「神事祭礼厳重」と記されていますが、戦国時代に至って度々の戦乱被害にあい、天正12(1584)年社頭再建を伝えています。
天正5(1577)年、織田信長の命を受けて中国平定のために播磨に入った羽柴秀吉が播磨の諸城を攻略している時、松原八幡神社と八正寺は秀吉方に属し、別所長治と対立したため、長治を援助する毛利輝元の軍船が来襲して兵火に見舞われました。また、天正9(1581)年、秀吉は松原八幡神社に城南芝原(現在の豊沢町)へ移ることを命じましたが、松原の地は由緒ある土地であることを理由に移転を拒んだため秀吉の勘気に触れ、社領を60石に減じられたといわれています。(「飾磨郡誌」)この60石が江戸時代を通じて朱印地として安堵されました。
地元では、この時秀吉の軍師黒田官兵衛孝高が秀吉に懇願したことが、松原八幡神社のこの地での存続につながったと伝えられています。
この時再建された拝殿は黒田官兵衛孝高が寄進したと伝えられています。
また、黒田二十四騎の1人、井上九郎右衛門之房は、福岡藩知行割の資料に「播磨飾東郡松原郷桂村人」とあり、当地松原の出身とされています。
現社殿は享保3(1718)年、楼門は延宝7(1679)年の造営といわれています。
明治に至って姫路藩好古堂教授だった亀山雲平が宮司となり、私塾久敬舎ついで観海講堂を設立して住人の教育にあたり、播磨一円から門人が集まったといわれています。
松原八幡神社秋季例祭風流(まつばらはちまんじんじゃしゅうきれいさいふりゅう)は、「灘まつり」「灘のけんか祭り」として全国に知られる祭礼で、東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村(宵宮宮入順)の七地区によって担われ、年番地区を中心に祭礼を執行しています。
「灘七村」と称される近世以来のムラを基盤とする地域住民の強固な伝統意識によって継承され、神輿と太鼓屋台(ヤッサ、ヤタイと称する)の練りや練り合わせと傘鉾・獅子舞・獅子檀尻・お迎え提灯・大幟などの風流が特徴的で、お旅所の麓の桟敷席を伴う特設の観覧場での風流は華麗さ壮大さにおいて特異なものです。
文献・絵画資料も豊富で、祭礼の歴史は荘園鎮守としての松原八幡宮放生会まで遡ることができ、鎌倉時代までの流鏑馬の風流を嚆矢として室町時代には「一つ物」「天童」「傘鉾」などの風流が現れ、江戸時代に至ると獅子舞・芸屋台の檀尻、18世紀中頃には太鼓屋台が登場して現在は風流の中心を占め、播州平野にのみ展開している特異な神輿屋根型屋台の分布圏の中心の一つと想定されています。
特に、近世後期に流行した祭礼風流の受容・変遷・伝播を跡づける上で貴重なものです。
平成18(2006)年3月17日付で兵庫県指定重要無形民俗文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo SONY NEX-7
H26.3.25
住所: 兵庫県姫路市白浜町甲399番地
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