淡河弾正の墓〔八幡森史蹟公園〕(三木市)
淡河弾正の墓がある八幡森史蹟公園
2014年04月07日
淡河弾正忠定範は淡河城主で、三木城主別所長治とは姻戚関係でした。
天文8(1539)年に美作江見城主・江見又治朗祐春の次男として生まれました。
淡河氏に養子に入り、別所長治の祖父別所就治の娘と結婚したため、別所長治の義理の伯父にあたります。
天正6(1578)年2月別所長治が織田信長に抗し三木城に籠った際には別所氏に味方したため、天正7(1579)年5月から羽柴秀吉の弟の秀長を大将とする織田軍により淡河城が攻められました。
6月27日には、定範が牝馬を敵陣に放って包囲軍を破りました。
その後、三百余騎を率いて三木城に入城し、9月10日には毛利軍が糧食を三木城に入れようとしたため、羽柴秀吉はこれを阻もうとして平田大村で戦いが起きました。
定範は奮戦し、主従5騎が三木城に帰城しようとしましたが、八幡の森で割腹して戦死しました。41歳でした。
三木市は淡河弾正忠定範の404回目の命日にあたる昭和57(1982)年9月10日、三木合戦で信長方、別所方双方に多数の死傷者を出した平田大村加佐合戦で秀吉方の追手の手により非業の最期を遂げた淡河城城主の淡河弾正忠定範とその郎党などの死を慰霊するため、三木市民、淡河家の子孫、別所長治の部下子孫などの方々の募金と土地所有者森田氏の協力を得て八幡森史蹟公園の整備と淡河弾正忠定範戦死之碑、800人余の平田大村加佐合戦戦死者の慰霊碑と説明文が書かれた記念碑を建立しました。
(現地説明板などより)
Photo SONY NEX-7
H26.3.29
住所: 兵庫県三木市加佐
関連リンク
タグ
地図
関連情報