文殊院清龍寺(会津美里町・旧会津高田町)
天海誕生の際両親が文殊菩薩に祈願し子を授かったという伝承が残されている文殊院清龍寺
2014年05月27日

文殊院清龍寺は、山号は護国山、天台宗の寺院です。
暦応2(1339)年、円済法師がこの地に立ち、独鈷等(仏具の一種)を投げたところ光を放ったので、土を盛り、堂を建てたことが始まりといわれています。
清龍寺はもとは伊佐須美神社の境内にありましたが、寛文年間(1661~73)には社地から分離し、伊佐須美神社奥ノ院別当をつかさどっていました。
文殊院は天海大僧正の両親が文殊菩薩に祈願し子を授かったという伝承が残されています。元禄11(1698)年、文殊院は「慈眼ノ誕生ヲ祈リシ霊験ノ仏ナリ」という噂を伝え聞いた東叡山寛永寺の大明院法親王から若松の延寿寺を通して、寛永寺に文殊菩薩を遷座することを要請されました。遷座の件は、幕府の老中から会津藩にも伝えられ、会津藩家老西郷頼母等の指揮の下に行われました。その際の様子が会津藩の「家世実記」や、「高田徴古録」に残されていて、文殊菩薩の梱包の状況や移動日程、警備、警護の注意などが残されています。
遷座の後、文殊院はもとの文殊菩薩の代わりに法親王が開眼した文殊菩薩を賜りましたが、天明3(1783)年の大火で焼けたため、再び定朝作と伝えられる文殊菩薩及び金襴の旛、若干の金を賜っています。後に明治の大火で文殊堂は焼けてしまいましたが、再建された文殊院には寛永寺から送られた木像の台で漆塗りの常夜燈一対が残されています。
また、境内には智鏡塚と芭蕉翁袖塚碑があります。智鏡塚は智鏡上人を祀った塚で、高さ1.5メートル、周囲約18メートルの大きさがあり、塚の上には大きな五輪塔が建てられています。
智鏡上人は法幢寺の僧といわれ、文亀3(1503)年に伊佐須美神社が火災にあい、贈爵綸旨を焼失したのを嘆き、天文20(1551)年、京都に赴き、後奈良天皇より再び正一位の綸旨を賜わった人物です。この綸旨により伊佐須美神社は再興したと伝えられています。
天文22(1553)年、智鏡上人は高田村に疫病が流行したとき、穴を掘り棺に入って生き埋めとなりました。智鏡上人は墓の中から念仏を唱え、疫病から人々を救おうとしました。21日間は地中より鐘を鳴らしながら唱える念仏が聞こえたが、その音もついに絶え、捨身往生を遂げたといわれます。村人は塚に五輪塔を建て、供養したと伝えられています。
芭蕉翁袖塚碑は野面石に「芭蕉翁袖塚」と5文字を陰刻した碑で、台石を含めると1.48mの高さがあります。松尾芭蕉が元禄2(1689)年、奥の細道への旅に出立するとき、右袖は筆のすさびには邪魔になるとしてたち切り、これを弟子の堀伊賀之助に与えました。それを高田村の俳人田中東昌(月歩)がもらいうけ、東昌は更に自分の弟子小林麻蔵に預けました。麻蔵は伊佐須美神社の薄墨桜の下に、この袖を埋めて「芭蕉翁袖塚」の碑を建立しました。後世に、碑は智鏡塚の東に移され、更にまた現在の位置に移されまし。
東昌は幼い頃より神童と呼ばれ、高田組郷頭を勤めたほか、文学者としても有名でした。
東昌の死後一周忌の天保10(1839)年5月に門人が「袖塚集」を編み、この由来を記しています。「袖塚集」は現在でも田中文庫に残されています。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.5.3
住所: 福島県大沼郡会津美里町文珠西甲3611
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