長州 大垣藩六人之墓(白河市)
稲荷山の麓にある長州 大垣藩六人之墓
2014年06月10日
白河宿は、江戸日本橋を起点とする奥州街道の27宿目にあたり、 現在城下を通る街道は、寛永4(1627)年、初代白河藩主丹羽長重が、居城の小峰城を大改修した際にあわせて城下町を整備した時の形がほぼ残っているものです。
町境ごとに残る鉤型は、敵の侵入に備えた防御の工夫であり、江戸時代の絵図と現在の街道はそのまま重なります。
記録によれば、寛文年間(1661~73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と 合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。
松並は、白河城下の入口にあたり、市内の九番町の西端、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘があります。
絵図によると道の両側は土塁が築かれ、直角に曲がって町に入る形になっています。丹羽長重入封以前には、直線だったと推測される城下入口を、的からの防御を重視して長重が作り替えました。
慶応4(1868)年、奥羽諸藩鎮定のために薩長大垣等の西軍が大挙して三方から白河を攻めました。
東軍の会津・仙台・棚倉の兵は白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃ちました。松並は、白河口での激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を
退けましたが、5月1日、再び来襲してきたため、西郷頼母・横山主税常守等が稲荷山に陣し迎え撃ちましたが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず、ついに敗退のやむなきに至り、小峰城は遂に落城、城郭は焼失しました
戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めました。
白河街道の左曲する南側に、長州藩3名、大垣藩3名の墓があります。大正4(1915)年まで薩摩藩7名の戦死者も葬られていました。
明治9(1876)年6月に明治天皇が、明治41(1908)年9月には東宮嘉仁親王が立ち寄り供養されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.5.5
住所: 福島県白河市松並
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