源義経と梶原景時が論争を繰り広げたとされる逆櫓の松跡
2014年06月19日
「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年/寿永4(1185)年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとしました。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案しました。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べました。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとしました。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは200数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめました。
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれています。この地には、江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたといわれています。この松を逆櫓の松と呼んでいました。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたそうです。
大正15(1926)年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てましたが、昭和20(1945)年3月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていました。
昭和33(1958)年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49(1974)年5月地元有志によって、現在地に移設されました。
平成17(2005)年の大河ドラマ「義経」の第31回「飛べ屋島へ」の「義経紀行」で紹介されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon PowerShot S110
H26.5.17
住所: 大阪府大阪市福島区福島2-2-4