都於郡城(西都市)
伊東氏の居城で国の史跡に指定されている都於郡城
2014年08月03日
工藤左衛門尉祐経は建久元(1190)年正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられました。
その嫡男である伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従って勲功を認められ、建武2(1335)年、都於郡300町を賜り、その一族を連れて伊豆から都於郡に下向してきました。
都於郡伊東氏としては、祐持が初代の城主という事になります。その後2代目伊東祐重が山城としての都於郡城の築城工事を行いました。
築城の模様については「日向記」〔天正18(1590)年〕に詳細に記録されています。築城に際しては本丸に存在していた伝説・高屋山上陵を掘り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられています。
都於郡城の主体部としては本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ城、それに奥ノ城の2つの曲輪があります。
この内城としての5城郭は、一名「浮舟城」とも称されていました。この5城郭に対しては外城としての南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠城などが内城をとりまくように築城されています。
また、各曲輪の縁辺部には土塁が構築され、曲輪と曲輪の間には空堀もつくられて、外的防御体制をとるようになっています。
南北朝以来約240年間、この都於郡城を本城としてとして日向一円を掌握した伊東氏も、10代目伊東三位入道義祐の時代、天正5(1577)年12月、都於郡城落城とともに一族を連れて豊後に落ち延びて行く事になり、伊東氏の栄華は終わりを告げることになります。
なお、伊東満所(マンショ)は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、元亀元(1570)年頃、城内で生まれました。マンショはその後、豊後から島原の神学校に入学しましたが、天正10(1582)年2月には天正少年使節4名(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)の正使としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、天正18(1590)年に長崎に帰ってきました。
都於郡城は、元和元(1615)年、一国一城令により廃城となりました。
平成12(2000)年、国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
本丸には伊東満所(マンショ)の銅像や慰霊碑が建立されています。
保存状況が素晴らしく、見応えがあります。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.18
住所: 宮崎県西都市都於郡町・鹿野田
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