天昌寺跡〔前島津 島津家久・豊久公の墓〕(宮崎市・旧佐土原町)
前島津 島津家久・豊久公の墓がある天昌寺跡
2014年08月04日
天正7(1579)年、それまで佐土原にいた伊東氏に代り、佐土原城主になったのが島津家久でした。
家久は鹿児島の串木野(鹿児島県いちき串木野市)から700余名を従えて佐土原城に入城し、佐土原を拠点として島津氏の勢力を広げました。
家久は若い頃の旅日誌その他から、文学面にも教養の高い立派な武人であったことがわかります。
天正15(1587)年、家久が急病で死去すると、その子豊久は18歳で跡を継ぎ、豊臣秀吉に従って功を立て島津の勢力を固めました。
慶長5(1600)年、豊久は、関ヶ原の戦いの際、叔父義弘と共に出陣し、最後は義弘の身代わりとなり、31歳の若さで戦死しました。豊久には子どもがおらず、城は明け渡しとなり、遺臣一同は佐土原を引き上げて、鹿児島の永吉(鹿児島県日置市)へ移りました。家久、豊久の領主期間はわずか20余年でした。
3年後、垂水から島津以久が入城、佐土原藩の祖となりました。この後の島津に対し、家久、豊久は前島津といいます。
家久と豊久の墓所がある天昌寺跡には、家久の母と妻の墓があります。
縁室如従大姉 家久の母
蘭香永春大姉 家久の妻
天岑昌運大居士 豊久公
梅天長策公大禅伯 家久公
十七基の墓は前島津の一族や家臣のもの、関ヶ原合戦で豊久に殉死した若者や、庄内の変で戦死した者の墓もみられます。
天昌寺は、明治4(1871)年、廃仏毀釈により廃寺となりました。
昭和54(1979)年、佐土原町(現在は宮崎市)の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.18
住所: 宮崎県宮崎市佐土原町上田島
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