高月院(宮崎市・旧佐土原町)
佐土原島津氏の菩提寺・高月院
2014年08月04日
高月院は、正式には大池山青蓮寺高月院という浄土宗の寺院です。
佐土原藩初代藩主以久公は、戦国騒乱の世を勇猛な武将として生き抜いてきた武人でした。晩年伏見に在住したとき、京都大雲院の開山、貞安上人の導きによって心の安定を得られたました。
のちに浄土宗門の戒を受けて剃髪し、「わが子孫永く大雲院の檀那となり、上人の遺法を護らしめん」と上人に約定されたといわれています。
慶長15(1610)年、以久は伏見で逝去され、上人の引導によって大雲院に葬られ「高月院殿前典厩照誉宗恕居士」と授与されました。
二代忠興公は亡父供養のため上人を開山和尚として佐土原の現在地に寺院を建立。父の号をとって高月院と命名、御廟所と仏間を設け、佐土原島津家の菩提寺とされました。(開山貞安上人伝 高月院蔵より)
初代公の約定はそのまま生かされ、当院と大雲院に対する藩の尊崇は非常に厚く、参勤の行き帰りには必ず参詣する習わしになっていました。
文化9(1812)年、当院は火災によって全焼、古記録や宝物を焼失したが、藩の手によって直ちに再建され、その壮大な姿は当院の絵図に残されています。
明治の初め、廃仏の嵐の中で当院は「一宗派一寺院を残す」の令によって、浄土宗の中心寺院として昔の面影のまま、被害を受けずに残り現代に至っています。
境内には、佐土原藩歴代藩主と奥方の墓石が並んでいます。本堂の中の島津家の仏壇に安置されている阿弥陀様は、9代島津忠徹の夫人、随真院が造立記とともに寄進したものです。
また、境内には豊烈曜後之碑(ほうれつようごのひ)があります。大雲院(京都市東山区)から移されたものです。戊辰戦争に参戦した佐土原藩兵の本陣は、京都四条の大雲院に置かれていました。明治元(1868)年12月、奥羽、北越での戦闘が終結し大雲院に引き揚げてきた佐土原隊は、この碑を境内に建立し盛大な慰霊祭を執り行いました。碑文には戦闘の経過と戦死者の名が記されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.18
住所: 宮崎県宮崎市佐土原町上田島8079−3
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