伊東塚(小林市)
木崎原の戦いで戦死した伊東軍の墓・伊東塚
2014年08月06日
都於郡城(西都市)を本拠地とし、日向国(宮崎県)の大半を治めていた伊東義祐は、元亀3(1572)年5月3日の夜、総勢約3000名の兵力で、前線基地の三ノ山城(小林城)から、飯野上江(えびの市)を経て、島津氏家臣の守る加久藤城を攻めさせました。ところが、思わぬ抵抗に遭い、伊東軍は木崎原(えびの市飯野)に退却しました。
飯野城で伊東氏の攻撃に備えていた島津義弘はその報告を受けると、ただちに計画通り各要所に兵を配置するとともに木崎原に軍勢を差し向け、5月4日両軍は大激戦となりました。
この戦いは島津氏側の大勝利に終わり、その後敗れた伊東氏は以前の勢力を取り戻すことはできず、かわって島津氏が日向国を治めるようになりました。
この木崎原の合戦で戦死した伊東軍500余名のうち、大将の伊東加賀守など主だった者200余名を真方因幡塚に葬り、この墓は後に伊東塚と呼ばれるようになりました。
慶安3(1650)年島津の武将五代勝左エ門の子孫は加賀守たちの霊を慰めるため五輪塔を建立しました。また文化14(1817)年小林地頭市田長門守源義宣は木崎原の戦いからわずか200年余りで供養塔の多くは失われてしまい、残っているのは伊東加賀守、伊東又二郎、伊東新次郎、稲都又三郎、上別府宮内小輔、米良筑後守、米良喜右介、米良式部小輔、野村四郎左衛門の塚九基になってしまったのを大変残念に思い、塚の保存と後世にこの戦いを語り伝えるため石碑を建てました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.19
住所: 宮崎県小林市真方
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