勝山城(勝山市)
江戸時代の勝山藩主小笠原氏の居城・勝山城
2014年09月06日
天正8(1580)年、袋田と呼ばれていたこの地に初めて城を築いたのは、柴田勝家の一族、勝安です。勝安は、九頭竜川の河岸段丘である七里壁や、北側に広がる沼地などを利用して城を築き、勝山支配の拠点としました。
勝安の築いた城は、元和元(1615)年の徳川幕府による一国一城令により壊されたようで、以後その跡地には代々の領主の館が建てられる程度でした。
勝山において城郭と城下町が整備されてくるのは、元禄4(1691)年に小笠原貞信が入封してからです。貞信は2万2777石をもって美濃国高須から勝山に入封しました。当時、勝山には城跡しかなかったので、貞信は幕府に対し築城の許可を願い出ましたが、実際に許可を得たのは宝永6(1709)年7月12日、2代信辰の代になってからです。
信辰は、まず本丸の普請に取りかかり、古い堀を掘り返したり、土居を築いたりして一応その形を整えました。しかし、財政が続かなかったようで、その後の工事は中断しました。工事が再開されたのは、およそ60年後の明和7(1770)年、5代信房の時です。信房は二の丸を築き、藩主の御殿をそこに移転しました。7代長貴は、幕府の若年寄という要職につきましたが、藩の財政は出費がかさみ、厳しい状況でした。その上、文政5(1822)年には本丸から出火し、門・高塀・土蔵を残して焼失しました。この時は、町や村々からの見舞い金や手伝いによって、瓦や桧皮葺きの御殿が再建されました。
また、長貴の代には、二の丸北部の未完成部分が仕上げられ、築城からおよそ120年が経過してようやく当初の計画に近い形の城郭ができあがりました。
しかし、「蔀曲輪」と「東馬出し」はつくられず、天守も築かれませんでした。
8代長守の時に明治維新を迎えましたが、城郭の建物等は売りに出され、天守台と本丸の堀の一部を残し埋め立てられました。ながく小山状の天守台があり、市民から「お天守」と呼ばれ親しまれてきましたが、昭和42(1967)年の市民会館建設に際し削平されました。現在、その跡地には、長盛の筆による「勝山城址之碑」が残るのみです。
(現地説明板より)
Photo SONY NEX-7
H26.7.26
住所: 福井県勝山市元町1丁目5−16
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