元興寺(奈良市)

元興寺は、南都七大寺の1つに数えられる寺院です。
かつては、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院でしたが、中世以降次第に衰退して、敷地も縮小され現在は元興寺と名乗る寺院は中院町の真言律宗西大寺の末寺・極楽坊と芝新屋町にある東大寺の末寺で、華厳宗に属する寺院に別れています。その他、真言律宗の小塔院も元興寺を起源とします。
史跡指定は、「史跡元興寺」として指定されている地域は中院町の「元興寺極楽坊」、芝新屋町の「元興寺(塔跡)」、西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所です。
極楽坊にある本堂は国宝で、こちらの元興寺は、「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されています。
元は、飛鳥の地に用明天皇2(587)年に蘇我馬子が建立を発願し、崇峻天皇元(588)年に建立に着手した法興寺(飛鳥寺)を前身とします。
元明天皇の和銅3(710)年、奈良に都が移されると、法興寺も養老2(718)年に平城京に移され、寺名も法興寺から元興寺に改められました。その際、元の法興寺は地名からそのまま「法興寺」「本元興寺」(飛鳥寺)として残され、新しく移った元興寺の寺地が「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれるようになりました。
奈良時代の末期、智光は、智光曼荼羅として知られる浄土変相図を遺し、智光が住んだ僧房の一房は、極楽房と呼ばれ、智光曼荼羅が本尊として祀られるようになりました。
平安時代の前半期まで、元興寺は南都七大寺として隆盛を誇りましたが、平安時代後期は中央政府の権力が衰え、荘園、寺領からの収入が困難になり、天台、真言系の新しい寺院の興隆や貴族との結びつきが強い寺院の強大化などにより、他の官寺と同様、衰退の道を辿ります。
その過程で、元興寺の命脈を支えることになったのが、智光曼荼羅で、僧坊の一部が改造され、極楽房が成立し、浄土真宗の波に乗って一角を極楽坊と呼ばれるようになりました。
僧坊の一部を改造した極楽房は、極楽堂とも曼荼羅堂とも呼ばれ、次第に元興寺本体とは別の寺院として南都系浄土信仰の中心となっていきます。
現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を寛元2(1244)年に改築したものです。
室町時代の宝徳3(1451)年、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残りましたが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼失しました。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂しました。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えました。
極楽院は明治以降は荒れ果てていましたが、昭和18(1943)年、辻村泰圓が極楽院に入り復興に尽くしました。極楽院本堂は、昭和26(1951)年から昭和29(1954)年にかけて解体修理が行われました。
昭和30(1955)年に元興寺極楽坊と改称し、昭和37(1962)年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(現在の元興寺文化財研究所)、昭和40(1965)年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成しました。そして昭和52(1977)年、元興寺に改称しました。こちらは、平成10(1998)年、「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されています。
一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院でしたが、室町時代の火災に焼け残った創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の安政6(1859)年に近隣火災の類焼で焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退しています。
(パンフレットなどより)
拝観時間 9:00〜17:00
拝観料 大人400円 中学生、高校生300円 小学生100円
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.9.3
住所: 奈良県奈良市中院町11番地
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