多田弥太郎顕彰之碑(豊岡市・旧出石町)
浅間峠で最期を遂げた幕末の出石藩士多田弥太郎顕彰之碑
2015年07月14日

多田弥太郎は、幼名は経之、のち立徳、海菴と号しました。
文政9(1826)年、出石藩多田義徳の長子として出石城下柳町に生まれました。
藩黌弘道館に学び、長じて大坂に出て藤沢東咳、古賀侗庵に就いて朱子学を修め、さらに幕府昌平黌に学びました。
弘化3(1846)年、主命により帰藩し、若干22歳で弘道館教授となりました。
そして黒船が来航し世上騒然としたため海防を志し、長崎に出て高島秋帆、大木藤十郎に就き西洋砲術を学びました。
その後鍋島侯の寵遇を得て帰藩し、嘉永2(1849)年、出石城外室の台に於いて藩主久利の御前で洋式大砲(木製)を試射しその学ぶところを両丹、尾、紀、因、越、諸藩の有志に授け名声を博しました。
嘉永7(1854)年に至り、藩主の養嗣子をめぐる問題、兵制(砲術)問題等で時の藩執政、堀新九郎の専横を憤り単身江戸に奔り藩の後見役豊後岡藩主中川修理太夫久昭に施政糾弾の上書を呈しましたが捕らえられ、出石に逆走され9ヶ年にわたる幽閉を受ける身となりました。
その間「国体一覧」「海防難議」「地球小識」「闢蝦夷策」等を著し、国防の策を水戸烈公(斉昭)に献じ、蝦夷を北海道と改名すること、また屯田兵制度をおこし蝦夷地を開拓すること等提言して括目されました。
また勤王の志篤く、中条右京(姉小路卿用人出石人)を通じて朝紳に書を献じ、その名は広く公卿の間に広まりました。
文久2(1862)年11月藩主直々による藩政改革によりようやく赦免、再び弘道館にむかえられ、堀新九郎父子は専政の責を問われて自刃しました。
文久3(1863)年三条中納言季知の召により、同志高橋甲太郎(出石藩勤王家)と共に京師に赴く途中、七卿の都落ちを聞き追尾して長州に至りました。同年10月平野国臣等の生野義挙に同志高橋甲太郎、中条右京と共に参加、敗れるに及び後日を画して沢卿を説き、高橋甲太郎を従わせて長州に落ちのびさせました。
挙兵の志士の多くは山口妙見山麓で自刃しましたが、弥太郎は逃れて京都に潜みなおも因、伯の志士を募るため湯島(城崎)に至らんとして、八鹿町寄宮の駅で藩吏に捕らわれ籠輿に載せられ出石に送られる途中、浅間峠頂上において警士のため斬殺されました。
時に元治元(1864)年2月28日、享年39歳でした。屍は藩命により獄に埋め父母、妻子、弟妹すべて禁固に処せられました。
時移り、明治24(1891)年明治政府は故人の忠烈の死を悼み、その功を嘉して特旨従四位を贈り、靖国神社に合祀しました。
墓碑は出石経王寺にあります。
遺蹟碑は、大正14(1925)年に浅間峠に建立されましたが、昭和38(1963)年隧道の開通に伴い、境内地は雑草に埋まり放置されていましたが、地域関係者の協議により広く浄財を募り現在地に移転しました。
墓標は、峠の山中にあります。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.7.11
住所: 兵庫県豊岡市出石町福見
関連リンク
タグ
地図
関連情報