小口城(大口町)
織田遠江守広近によって築城された小口城
2015年09月06日

小口城(おぐちじょう)は、大口町の北部に位置し、その城域はかなり広かったとみられ、四方に二重堀・土塁を巡らした強固な城であったことが絵図や地誌等で分かります。しかし、現在は、小学校の敷地や宅地となり、わずかに城があったと思われる小山が、当時の趣をうかがわせます。
北東に犬山城、南西に岩倉城、南東に青塚、小牧山の砦というような位置関係にあり、この小口城が軍事的に重要な役割を果たしてきたことがわかります。
小口城は、長禄3(1459)年織田遠江守広近によって築城されたといわれており、別名「箭筈城(やはずじょう)」ともいわれ、織田氏の尾張経営の要所として、長い間、尾張北部の政治の中心的役割を担ってきました。その後、永禄年間(1558~1569)に信長の軍勢に攻略され廃城となったようですが、天正12(1584)年小牧・長久手の戦いにおいて、一時的に秀吉方の前線基地として再興されたこともありました。政治的軍事的にいかに重要な位置にあったかがうかがわれます。
初代城主である広近は、尾張国守護の斯波氏の守護代であった織田氏の初期の人で、守護代であった岩倉城主の兄・敏広を補佐すべく、小口城を拠点に犬山に木之下城を築城し、美濃の勢力に対抗し、尾張北部を治めていきました。広近自身、地方の武将でありながら、かなりの実力者であったらしく、中央の記録にもその名が散見されます。「文正記」によれば、文正元(1466)年、広近は大軍を引き連れ、主君である尾張国守護斯波義廉を助けるために上洛しています。また、「親元日記」には、広近、千代夜叉丸(兄・敏広の子)と敵対していた織田大和守敏定がそろって、将軍家(足利義政と妻の日野富子)に進物を贈った旨が記されており注目されます。
また、出家し、小口城の近くに徳林寺を再興、更に「万好軒」という隠居所(現在の妙徳寺。境内に墓地があります。)をつくり亡くなるまでここに住んでおり、大口町にとって縁の深い人物といえます。
その後、小口城は、岩倉城や犬山城の支配下であったらしく、さらに信長が小口城を攻略した頃の城主は「信長公記」によれば「中嶋豊後守」となっており、また、町内の余野神社には「謹奉・・・慶長貮年丁酉・・・中嶋佐兵衛尉」と彫られた鰐口があることから、16世紀後半には中嶋氏が小口とその周辺を治めていたと思われます。
城跡は、平成6(1994)年と平成8(1996)年に主郭部の発掘調査が行なわれて井戸の遺構などが見つかっています。平成11(1999)年に「大口町リバーサイド公園構想」に基づいて高さ17mの物見櫓や出土品を展示する展示棟、名古屋城二の丸の大手門を模した門などが整備され城址公園として開園しました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H27.8.7
住所: 愛知県丹羽郡大口町城屋敷1丁目
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