掃部山公園・井伊掃部頭直弼像(横浜市西区)
掃部山公園にある井伊掃部頭直弼の像
2015年09月14日
江戸時代まで、この戸部の丘は「不動山」と呼ばれる海に面した高台でした。明治初期には、日本初の鉄道開通に携わった外国人技師の官舎が建てられ、鉄道事業の拠点となりました。鉄道開業後もこの山の地下水が鉄道用水に使われたことから「鉄道山」と呼ばれるようになりました。明治17(1884)年、旧彦根藩士らが一帯を買いとり庭園化し、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼にちなみ「掃部山」となりました。
明治42(1909)年7月、横浜開港50周年記念に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老井伊掃部頭直弼の銅像を建立しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に直弼の子で与板藩井伊氏を嗣いだ子爵井伊直安より寄付されたものです。
大正3(1914)年には井伊家よりこの地は横浜市に寄付され、植樹、設備を整え、掃部山公園として開園しました。
掃部山公園には現在約200本の八重桜が植えられ、明治以来の桜の名所としても知られています。震災や戦災で焼けた後も、市民の献木運動で桜や梅が植えられるなど、地域の人から大切に守られてきました。また、昭和40(1965)年からは、毎年8月に、伝統芸能や茶道に通じた文化人である井伊直弼を偲び、野点や琴、尺八の演奏などを楽しむ「虫の音を聞く会」が開催され、長きにわたり夏の風物詩として親しまれています。
平成8(1996)年、横浜能楽堂が公園の一角に移転されました。これは、旧加賀藩の藩主前田斉泰の屋敷にあったものが移された、本格的な能楽の舞台です。2階の展示廊には、能装束や楽器などの能楽資料が展示されています。
井伊直弼の当初の銅像は藤田文蔵、岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さ3.6mを測りました。しかし、当初の銅像は、昭和18(1943)年に戦時中の金属回収によって撤去されましたが、現在の銅像は、昭和29(1954)年横浜市の依頼により慶寺丹長が製作したもので、その重量は約4トンあります。
なお、台座は妻木頼平の設計で、高さ6.7mあり、創建当初のものが使用されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H27.8.20
住所: 神奈川県横浜市西区紅葉ヶ丘
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