伝馬町牢屋敷跡(東京都中央区)
「吉田松陰先生終焉の地」・伝馬町牢屋敷跡
2015年09月29日
伝馬町牢屋敷は、慶長年間、常盤橋際から移って明治8年(1875)、市ケ谷囚獄ができるまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢したものは数十万人を数えたといわれています。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡です。当時は敷地総面積が2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門がありました。牢舎は揚屋敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚屋敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみでした。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があり、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されています。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、 死刑場役は有名な山田浅右衛門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻吟味に当たったといいます。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5(1858)年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が、すなわち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など50余人獄に下し、そのほとんどを刑殺しました。その後もここで尊い血を流した者は前者と合わせて96士に及ぶといいます。
なお、村雲別院境内には勤皇志士96名の祠と木碑が建てられています。
十思公園には、「松陰先生終焉之地」、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と刻まれた「吉田松陰辞世の碑」、「吉田松陰顕彰碑」、「忠魂碑(乃木希典書)」、「表忠碑(鈴木荘六書)」、「石町時の鐘」などの他、発掘された牢屋敷の石垣を移築復元しています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H27.8.23
住所: 東京都中央区日本橋小伝馬町5-2
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