勝海舟邸跡〔幕末〕(港区)

港区赤坂6丁目10番39号のソフトタウン赤坂が建つこの地は、幕末から明治にかけて幕臣として活躍した勝海舟が安政6(1859)年から明治元(1868)年まで住んだ旧跡です。
海舟は終生赤坂の地を愛し、3ヶ所に住みましたが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たります。海舟は号で名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めました。夫人は民子です。
海舟は文政6(1823)年、本所亀沢町の旗本屋敷、現墨田区両国4丁目の両国公園の地で、貧しい御家人の子として出生しました。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸、のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り、現赤坂3丁目13番2号のみすじ通りの借家で所帯を持ちました。
36歳からは赤坂本氷川坂下、のちの氷川町のこの地に住みました。
明治元(1868)年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移りましたが、明治5(1872)年再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地、現赤坂6丁目6番14号に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5(1993)年春まで区立氷川小学校敷地として使われました。
当初に住み始めた翌年の安政7(1860)年、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使のの外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2(1862)年11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所です。
明治元(1868)年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救いました。
第1回会談は、高輪の薩摩藩邸品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地で行われました。第2回については芝田町薩摩藩邸、のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷の裏側にある民家、現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺で行われたとの両説があります。いずれも当所居住中のことです。
明治維新では、明治元(1868)年5月、海舟の留守中に、一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入しましたが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞恵(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救いました。
海舟は終生赤坂の地を愛しましたが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H27.11.1
住所: 東京都港区赤坂6丁目10番39号
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