東条城(西尾市・旧吉良町)
東条吉良氏、東条松平氏の居城・東条城
2016年02月01日

東条城は中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城です。現在、城は独立丘陵に位置するように見えますが、本来は茶臼山(291m)から伸びる尾根の先端部にあたり、現在の県道は尾根の掘り切り部分を通っています。城の東から南の沼田は藤波畷と呼ばれ、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割を果たしていました。
鎌倉時代の貞応元(1222)年)頃、足利義氏が三河守護・三河荘地頭となりました。
その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となりました。
以後、14代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は300余年、足利・吉良氏も三河・遠江支配の重要拠点でした。
南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴きました。
その後裔が関東吉良氏です。
室町時代、応仁の乱(1467~)では、10代義藤は山名宗全に味方して、細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わいました。
12代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山の不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代りとなり松平一門の危機を救いました。
松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間合戦以後、織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4(1561)年9月には小牧砦に出陣し、自ら指揮して東条城攻略の態勢を固めました。小牧を本陣に、津平、友国、平原にも砦を築き、もはや今川家からの援軍も期待できず勢いに乗る松平勢の前に東条城の命運は絶望的でした。そして、9月13日に総攻撃は開始されました。
戦闘は、藤波畷で始まり、守るは吉良家の家老・富永伴五郎忠元率いる一族郎党、一面の湿田で進撃路は狭く、討ちつ討たれつの激戦となりました。
しかし、多勢に無勢で伴五郎も討ち死にし、一族はここに全滅しました、これを見た吉良方は城に退いて善戦しましたが守りきれず、城主・吉良義昭は降伏したそうです。9月13日はこの東条城の攻防に戦死した数百の将兵の命日になります。
こうして、鎌倉以来続いた名門・東条吉良氏の居城は松平家の手に落ち、元康の三河平定は完了しました。
後に天下を掌握した家康は、13代義安の子義定を旗本に取り立て吉良家を再興しました。
これが江戸時代の高家吉良家の始まりです。
落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立しました。
家忠の伯父松井忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられ周防守康親と名乗りました。
天正9(1581)年、家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えました。
康親は天正11(1583)年に没しましたが、子孫は多く幕府の要職につきました。
忠吉は関ヶ原合戦後、尾張清州城主となりますが、慶長12(1607)年に没し、後嗣なく東条松平家は断絶しました。
また、東条城には高名な文人、武人が多く訪れている。室町時代に歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催しました。武人では、信長、家康も鷹狩りにことよせて訪れています。
東条城は、天正18(1590)年に、家康が関東に移った後廃城となりました。それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものです。
平成4(1992)年に城門・物見櫓が復原され、古城公園として市民の憩いの場になっています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.12.27
住所: 愛知県西尾市吉良町駮馬城山
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