武節城(豊田市・旧稲武町)
武田・徳川との間で攻防が繰り広げられた武節城
2016年02月07日
武節城は、永正年間に田峯城主菅沼定信によって築かれ、菅沼十郎などの城代が置かれました。
弘治2(1556)年下条信氏の侵略を受けて激戦がありました。また、元亀2(1571)年、武田信玄が本格的な三河侵攻を開始、2万5千の大軍を率いて飯田から南下し、杣路峠を越えて城下に迫り、本城である田峯とともに戦わずしてその軍門に降りました。
信玄はさらに足助城を落とし、下山から作手へ登り亀山城を落とし、新城に降り野田城を攻め、吉田城を脅かして甲州へ帰りました。天正元(1573)年3月、徳川家康の長男信康が14才の初陣に武節城を攻め落としましたが、翌年に武田勝頼に攻め落とされました。
天正3(1575)年5月、長篠で大敗した武田勝頼はこの城で梅酢湯を喫し甲州に帰ったと伝えられています。そして7月、酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領に加えられましたが、天正18(1590)年、徳川家康の関東移封とともに廃城となりました。その間約100年にわたって存在した城でした。
信州と美濃の国境にあり、三河の最前線基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、戦乱の時代にあって戦火に明け暮れ、小さな平山城ではあったが武田、徳川にとって大変気になる存在の城でした。
今も城跡は二の丸、三の丸と階段状に下り、本丸の上にはかつての物見台や狼煙台の跡に八幡神社があります。周囲には十数か所の曲輪の跡があり、五百年前の空掘が当時の名残を留めています。麓には「大門」、「屋敷」、「古町屋」など当時の地名が残っています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.12.28
住所: 愛知県豊田市武節町
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