大桑城(山県市〔旧高富町・旧美山町〕)
大桑城(おおがじょう)は、標高407mの古城山にあり、金華山や濃尾平野を一望することができます。
地元で古城山と呼び親しまれているこの山頂一帯には戦国時代には山城が築かれ美濃の守護大名土岐氏が斉藤道三との抗争を繰り広げたと伝えられています。
当地には道三に敗れた土岐氏が落城の際に家宝の金の鶏を城内の井戸に沈めて落ち延びたとの伝説があり、これにちなんで別名金鶏山とも呼ばれています。
建久年間(1180~1198)に山県氏流大桑太郎が大桑郷に領を構えて定住していましたが、承久3(1224)年、大桑太郎は領地を没収され、代わって逸見又太郎義重が大桑郷の領主となり数代に渡って大桑城に居住しました。
応永年間(1394〜1427)、美濃国守護であった土岐氏の一族の土岐頼忠とその子頼重が大桑に住み、また土岐持益も大桑柏野に住みました。
明応5(1496)年、土岐成頼の次男大桑兵部大輔定頼は大桑城を修築し、舟田の乱では大いに戦功を立てました。
天文4(1535)年、守護土岐頼芸は大桑城に移り府城としました。
天文11(1542)年、斎藤道三は土岐頼芸を大桑城に攻め、美濃を治めました。しかし、天文13(1544)年、頼芸は、頼純と共に大桑城を本拠とし、稲葉山城に道三を攻めました。天文14(1545)年には頼純が大桑城に入り、頼芸が揖斐城に入りました。
天文16(1547)年には道三は再び大桑城を攻め、頼純は討死、頼芸は織田信秀の元に逃れました。
天文17(1548)年、斎藤と織田は和議を結び、頼芸は大桑城に戻りました。
しかし、天文21(1552)年、道三は大桑城を再び落城し、頼芸は東国に落去しました。
現在麓には四国堀などの遺構が残り、山頂一帯には平坦な広場のような曲輪や尾根筋を断ち切って敵の侵入を阻むために堀り込まれた堀切など、山城の遺構が当時のまま残されており、文化財と里山の景観が共存する貴重な遺産といえます。
また、山麓にも土岐氏や斉藤氏をはじめとする家臣らの館の伝承地が残っており、城下町のような空間があったことが発掘調査などでも判明しています
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.12.29
住所: 岐阜県山県市大桑・青波・富永
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