大坂冬の陣で大坂城の出城として真田信繁(幸村)が築いた真田丸
2016年04月27日
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で西軍に与し敵軍の将となった信州上田城主真田昌幸、幸村(信繁)親子は戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移りました。
父昌幸は慶長16(1611)年6月4日に九度山で亡くなりますが、幸村は大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19(1614)年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城しました。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築しました。これが「真田丸」で、幸村は慶長19(1614)年12月4日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常、松平忠直、井伊直孝、藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとりました。
「真田丸」の場所については、元禄年間(1688〜1704)年に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかです。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われていますが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得ました。
平成28(2016)年1月、大阪明星学園グラウンド前に顕彰碑が建てられました。
心眼寺、三光神社、グラウンド付近の高低差など周辺の地形にはかつての真田丸の面影がかすかに感じられます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H28.3.19
住所: 大阪府大阪市天王寺区餌差町5