三沢城(奥出雲町・旧仁多町)
三沢氏の城で尼子十旗の一つ三沢城
2016年05月24日

三沢城は尼子十旗の一つです。
北に斐伊川、南はその支流阿井川にはさまれた標高418mの鴨倉山を中心に位置し、山陰、山陽を結ぶ要衡の地につくられています。
築城は14世紀初頭に三沢郷地頭の三沢氏によって築城されたと伝えられています。三沢氏は、正安4(1302)年、信州飯島郷より清和源氏の流れをくむ飯島為長(為仲)が三沢庄雨川に来住し、嘉元3(1305)年に三沢城を築城し、姓を飯島から三沢に改めました。
延元3(1338)年、大原香折新宮(加茂町屋裏)の地頭職となり、出雲平野部進出の足がかりを得ました。
永正6(1509)年、三沢為忠の代に、横田の高鍔山に藤ヶ瀬城を築城しここに移ったが、三沢城には城番を置いていたものと見られています。
天文9(1540)年、この頃、三沢為幸は尼子氏に従って吉田郡山城の毛利氏を攻めた際、毛利元就に敗れた尼子勢が敗走する中、三沢十勇士を引き連れて、毛利本陣を襲い、ここで討死しました。
永禄元(1558)年、三沢為清は、尼子晴久に従い、再度、毛利攻めに出陣、この時、三沢城留守居役・布広氏は、郎党を引き連れて、毛利本体に合流せんとする高野山城勢を阿井福原で破りました。
永禄3(1560)年、三沢氏は毛利氏に降礼をとり、後は毛利氏に従って尼子氏の高尾城・馬木矢筈城攻め、永禄9(1566)年に尼子氏の本城・月山富田城攻め、天正6(1578)年には織田信長の庇護を受けて再興を目論む尼子勝久・山中幸盛の上月城を攻め、続いて天正9(1581)年には羽柴秀吉により水攻めを受ける備中高松城救援などに従いました。
しかし、天正17(1589)年、三沢氏の威勢を恐れた毛利氏の甘言により、三沢為虎は、一族郎党と共に安芸に出頭し、厳しい監視下に置かれ、三沢に帰城することも許されないまま、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、毛利氏家臣となりました。
三沢城は、北側と東側の尾根を中心に大小30以上の曲輪が確認されています。
地元では1郭を「本丸」2郭を「鳥居ヶ丸」と呼んでいますが、南端の土壇を櫓台とみて2郭を主郭(本丸)とする考えかたもあります。
虎口が数カ所確認されるほか、大手門には石垣が残っています。
この城跡は、土塁、堀切、桝形など中世山城の遺構をよくとどめており戦国時代の豪快な縄張りの山城として貴重です。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H28.5.3
住所: 島根県仁多郡奥出雲町三沢
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