膳城(前橋市・旧粕川村)
武田勝頼の「膳城素肌攻め」で知られる膳城
2016年09月12日
膳城は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置しています。南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成しています。
この城の築城年代は不明ですが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見えます。しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではありません。その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場します。
戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現れます。
現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられています。特に天正8(1580)年の武田勝頼による東上州進攻の際の、膳城をめぐる攻防戦は「膳城素肌ぜめ」として著名です。
天正8(1580年)年、御館の乱のなかで武田勝頼は上杉景勝を支持、上杉景虎派の厩橋城を制圧しそのまま赤城山南麓の大胡城・山上城・伊勢崎城を攻略していました。攻略後、武田勝頼軍は人心安定のため平服のまま各地を視察し、膳城付近を通過しました。当時膳城では酒宴が行われ玉村五郎兵衛という侍が、渋川主膳正と口論を始め喧嘩沙汰も起きており、武田軍を見た一部城兵が激高、武田軍の倉賀野秀景に攻撃を仕掛けてしまいました。この結果、武田勝頼軍の反撃を受けて膳城は落城、河田備前守や城代・大胡民部左衛門が討ち取られてしまいました。 これを「膳城素肌攻め」といいます。
膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられています。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残しています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H28.8.7
住所: 群馬県前橋市粕川町膳
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