後閑城(安中市)
依田氏、後閑氏などが居城とした後閑城
2016年09月19日
後閑城は嘉吉・文安の頃(15世紀中葉)、信州の依田忠政が築いたと伝えられています。上後閑の長源寺にある文明2(1470)年10月3日付けの依田信濃入道寄進状もそれを裏付けています。
天文7(1538)年依田光慶が鷹巣城(板花)に移った後に北条政時が一時在城しましたが、永禄3(1560)年、政時は丹生城主新田景純との争いで敗れ、その後新田氏が後閑城に移りました。
新田氏は姓を後閑に改め、景純の子信純の頃、武田信玄に従い、天正10(1582)年武田氏滅亡後、北条氏に従いますが、天正18(1590)年北条氏滅亡後に後閑城は廃城になりました。
後閑城は、後閑川と九十九川の合流地点に突き出した、南北につづく丘陵の末端部分に築かれた山城です。この山城は四ヶ所の掘切で断たれ、南端の最も高い部分に本丸があります。
本丸は南北約60メートル、幅約30メートルで、西には階段状に3つの大郭(西第一~西第三郭)がならび、東にも階段状に郭(東郭、東郭群)がならんでいます。また本丸の東南と西南には枝尾根が分岐していて、それぞれの尾根の基部は掘切で断たれています。
これにより二の丸と南郭は本城から切り離され、いわゆる一城別郭の構造になっています。二の丸は本丸より約16メートル低く、大堀切に面して櫓台が築かれています。
このたび後閑城址公園整備にあたり、発掘調査を行いましたが、本丸虎口部分の柱穴、二の丸櫓台上の柱穴の他には、建物に関係する遺構は検出することができませんでした。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H28.8.7
住所: 群馬県安中市下後閑
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