津田城〔国見山城〕(枚方市)
国見山に築かれた津田城〔国見山城〕
2017年02月13日
津田城(国見山城)は、延徳2(1490)年、河内国交野郡の国見山に津田周防守正信が築城しました。
津田氏は、約100年にわたり、戦国の世にこの地で勢力をふるいました。
2代備後守正忠は天文年間(1532~55)、蓮如の子、蓮淳が招堤にて敬応寺を創建したとき、娘を側室におくり本願寺勢力と通じました。
3代周防守正明に至り津田氏の勢力は最も強大となり、飯盛山城に拠って畿内に号令した三好長慶と結び、交野、茨田両郡で一万石を領しました。
天正3(1575)年4月、織田信長の河内平定のため、藤阪、津田などは洞ヶ峠から攻められ津田城(国見山城)も焼き払われました。このとき城主は4代目主水守正時でした。正時は天正10(1582)年、山崎合戦に明智光秀に味方するため招堤寺内衆とともに出陣しましたが、秀吉方に敗れ、津田、尊延寺などの領地は没収されました。津田城(国見山城)は、緊急時に使用する砦としての役割をはたしていました。
傾斜面を切り拓いて建物を建てた跡が数ヶ所あり、南方の狭い尾根からの攻撃に備えるため、東西に土塁が築かれています。昭和31(1956)年には数回の発掘調査が行われ、山頂東側において地表下30センチから焼土層が確認され、天正3(1575)年の織田信長による焼打ちによる火災の跡、当時の陶磁器の破片も出土しています。
国見山は標高およそ300m、南東は大和に続く山並みであり、その東に広がる南山城平野を貫いて木津川が北流するのが見られます。
山並みの向こうにも笠置の山に続く鷲峰山がみられます。木津川・宇治川・桂川の合流点をへだて、京都の市街が広がり、比良、比叡のひときわ高い山容を望むことがでます。岩清水鳩ヶ峰と天王山の狭間から淀川が南流して、摂津と河内を二分しています。下流の方向には六甲山や、大阪湾が白く光るのも見えます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H29.1.7
住所: 大阪府枚方市津田
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