柿本城(新城市・旧鳳来町)
井伊谷三人衆鈴木氏の居城・柿本城
2017年05月28日

柿本城は、遠江井伊谷の井伊家被官だった鈴木長門守重勝が、三河遠江国境を扼するため、永禄11(1568)年に徳川家康の命により築城を開始したとされています。
本城は、標高190mの子路山山頂付近の端部に所在し、規模は約150m四方にわたり、南北90mで東西約55mの長方形を呈する主郭と、その東西部の一段低い場所に腰曲輪が配置されます。土塁などの遺構は認められず、防備の基本は、堀や柵を立て並べるものだと思われ、山城としてのその構築は、長篠の戦いの天正3(1575)年以後と思われます。
重勝の嫡子の鈴木三郎太夫重時(山吉田)と、菅沼次郎右衛門忠久(都田)、近藤石見守康用は、三河者で知勇に優れ、同じ井伊家に仕えて仲が良く、井伊谷三人衆と呼ばれました。家康の永禄11(1568)年の遠江侵攻の際の道案内役を務めた後、柿本城を築城して、井伊谷と山吉田を共同して守るよう家康から命を受けました。
井伊家15代当主の井伊直盛(直虎の父)が永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで亡くなると、養子(従弟)の井伊直親が16代当主となりましたが、直親の母親が鈴木長門守重勝の娘であったことから、井伊家を支えるために山吉田・鈴木家が奔走したことが推測されます。
元亀3(1572)年10月には徳川家康との盟約が破れた武田信玄は2万5千の兵を率いて遠江攻略に出陣し、三河に進出してきた武田軍の内、山県昌景の5千の兵は、井伊谷方面に出るため、作手の奥平、田峯の菅沼、長篠の菅沼の山家三方衆の道案内で、500ばかりの兵が守る柿本城へ押し寄せました。軍勢を率いて、5百ばかりの兵が守る柿本城に押し寄せました。本丸が完成したところで攻撃を受けたため、城を守るのは困難な状態でした。15歳の城主の鈴木平兵衛重好(重時の嫡子)は、満光寺玄賀和尚らの仲介によって戦闘を回避すべく和議を結んで開城し、引佐町・伊平小屋山砦に向かい入ることができました。
その後鈴木重好は、親譲りの剛勇と知謀を兼ね備えていて、後に徳川四天王の一人と呼ばれた17代井伊直政に仕え、「関ヶ原の戦い」など各合戦に従軍、数々の戦功を挙げました。元和4(1618)年、水戸藩初代徳川頼房(家康の末子)の附家老となり、その子孫代々において水戸城代家老あるいは執政等、水戸藩政の要路にたって忠勤に抜きんでて、万石以上の格式を充てられました。
一方柿本城は、家康の遠江平定後は、宇利城主の近藤康用がここに居城を移したとされています。
(現地説明板などより)
城跡は、道の駅鳳来三河三石から満光寺にむけて登っていきそこから登城ルートが整備されていました。平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」第13回「城主はつらいよ」の直虎紀行で紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.5.3
住所: 愛知県新城市下吉田田中
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